日高見国を「国境」で探すと、見失うのかもしれない
日高見国を調べると、どうしても一つの疑問が出てきます。
「どこからどこまでが日高見国だったのか」
現代人なら当然の疑問です。
大阪府はここまで。
京都府はここから。
私たちは国や県には境界線があると思っています。
しかし古代にも、同じような線が引かれていたのでしょうか。
もしかすると、そこから考え直した方がいいのかもしれません。
海でつながる人々。
同じ川を使う人々。
同じ神を祀る人々。
同じ物を交換する人々。
婚姻でつながる集団。
戦うときだけ協力する集団。
それぞれ独立しているけれど、必要なときにはまとまる。
そんな世界も考えられます。
だとすれば、日高見国を現在の国家のように、
「ここからここまで」
と線で囲もうとすると、逆に姿が見えなくなるかもしれません。
常陸には日高見とのつながりを思わせる記録が残る。
北へ行けば、「蝦夷」と呼ばれた人々の世界が広がる。
その間には川があります。
海があります。
交易があります。
現在なら茨城、千葉、福島、宮城、岩手と県境で切れてしまいます。
でも船に乗った古代人から見れば、その線はありません。
海岸沿いを進む。
川を上る。
津に入る。
そこで物を交換する。
また別の川へ移る。
その人たちにとっての世界は、現在の行政区分より水路によってできていたのではないでしょうか。
そう考えると、
「巨大な一つの王国があった」
というイメージから少し離れられます。
いくつもの地域が独自性を持ちながら、祭祀や交易、婚姻、軍事などで結び付いた東日本の大きな連合世界。
そのどこかに「日高見」という名前が重なっていた。
今の私には、この景色の方が自然に見えます。
そしてその世界へ、のちに大和を中心とする律令国家の制度が少しずつ伸びてきます。
その境界線が北へ動いていく中で、やがてアテルイやモレの時代につながっていく。
こうして見ると、アテルイの戦いは突然始まった出来事ではありません。
もっと長い時間をかけて、
東の世界と中央の世界が接触し、
混ざり、
時には争いながら、
一つの国家へ組み込まれていった過程の一場面だったのかもしれません。
日高見国を探すことは、
消えた一つの王国を探すことではなく、
「日本がまだ一つになる前の東日本」を探すことなのかもしれません。