鹿島・香取の周りに、なぜ大きな墓が集まるのか
神社の近くに大きな古墳がある。
一つなら偶然かもしれません。
しかし同じ地域に何十基、何百基という古墳が集まり、その中に巨大な前方後円墳まで現れると、少し意味が変わってきます。
鹿島神宮の北側には、大規模な宮中野古墳群があります。
確認されている古墳は百基を超え、中には100メートルを超える大型古墳もあります。
香取側にも、大規模な古墳があります。
つまり鹿島と香取の周辺には、単に人が住んでいたのではなく、大きな墓を築けるほどの力を持った人々がいました。
巨大な古墳を造るには、多くの人手が必要です。
土を運ぶ。
石を運ぶ。
木を切る。
食料を用意する。
作業する人を統率する。
それだけのことができる人物なら、単なる一集落の長とは考えにくいでしょう。
そして古墳は、死んだ人のためだけに造るものでもありません。
「ここを支配したのは誰だったのか」
生きている人へ見せる巨大な印でもあります。
水辺を船で進んでいる人から、大きな墳丘が見えた可能性もあります。
もしそうなら、それは現代のランドマークにも似ています。
「あそこから先は、この人たちの土地だ」
そんなことを、言葉を使わずに示していたのかもしれません。
その近くに祭祀の中心がある。
水運がある。
人が集まる。
後には行政施設も置かれる。
ここまで重ねると、鹿島・香取周辺が古代東国の重要地域だったということ自体は、それほど不思議ではなくなります。
問題は、その世界を何と呼べばいいのかです。
常陸なのか。
香取の海文化圏なのか。
さらに広い東国世界なのか。
あるいは「日高見」という名前と、どこかで重なっていたのか。
そこはまだ決めません。
名前を先に決めると、証拠を名前に合わせてしまうからです。
まず土地を見る。
墓を見る。
水を見る。
人がどこを移動できたのかを見る。
それから最後に名前を考える。
その順番の方が、消えてしまった歴史に近づけるように思います。