鹿島と香取は、なぜここにあるのか
鹿島神宮と香取神宮を現在の地図で見ると、茨城県と千葉県に分かれた二つの神社に見えます。車で移動する現代人の感覚では、「少し離れた場所に大きな神宮が二つある」という程度かもしれません。
ところが、昔の地形を重ねると景色が一変します。
現在は陸地になっている場所の多くに水が入り込み、霞ヶ浦や北浦を含む広大な水域が広がっていました。その一帯は、後に「香取の海」と呼ばれる大きな内海の世界でした。
すると鹿島と香取の位置関係も変わります。
二つの神宮は離れていたのではありません。
広大な水の世界を挟んで向き合っていたように見えてきます。
ここで一度、「神社」というものを頭から外して考えてみます。
道路も鉄道もトラックもない時代、大量の人や荷物を動かすには水運が重要です。船なら米も魚も塩も木材も運べる。遠くの土地から人も来る。物だけでなく、情報や技術も一緒に動きます。
つまり、大きな水域の出入口や川が集まる場所には、自然に人が集まります。
人が集まれば交換が始まり、交易が生まれる。有力者も現れる。争いも起こる。そして船に乗る人間は、無事に帰れることを祈るでしょう。
航海の安全。
豊漁。
洪水からの守り。
交易の成功。
一族や地域の安泰。
人が集まるところには、祈りも集まります。
そう考えると、少し順番を逆にしてみたくなります。
「神宮があったから人が集まった」のではなく、もともと人と物が集まる重要な場所だったから祭祀が発達し、長い時間をかけて大きな神宮へ成長していったのではないか。
鹿島神宮の周辺には大規模な古墳群があり、香取側にも巨大な古墳や古墳群があります。そこには何世代にもわたる有力者が存在していました。
鹿島では、神宮の近くに古代の行政施設も置かれています。
祭祀だけではありません。
墓がある。
行政がある。
水運がある。
人がいる。
それらを一枚の地図へ重ねると、ここは突然「有名な神社が二つある場所」ではなくなります。
東国の巨大な水上交通圏の中心部だったのではないか。
そんな景色が浮かんできます。
そしてもう一つ、不思議なことがあります。
古代の制度の中で「神宮」という特別な呼び方をされたのは、伊勢、鹿島、香取でした。
西には伊勢。
東には鹿島と香取。
偶然として流してしまうには、鹿島と香取の周囲に集まっているものが少し多すぎる気がします。
古墳。
水運。
有力者。
行政。
祭祀。
そして、そのさらに東や北には、まだ大和の支配が十分に及んでいなかった広大な世界が続いていました。
日高見国を考えるとき、私はここを無視できないと思います。
鹿島と香取が「日高見国の首都だった」と言う証拠はありません。
でも、「東国世界の重要な二つの中心だったのではないか」と考えてみる材料は、かなり揃っています。
現在の県境を消し、道路を消し、昔の水面を戻す。
すると鹿島と香取の間に、
一つの大きな世界が現れてきます。