葛城氏の土地には、なぜ多くの技術が集まったのか
奈良県御所市。
金剛山と葛城山の東側に広がるこの地域は、5世紀ごろ、葛城氏の本拠地だったと考えられています。
御所市には、全長238メートルの宮山古墳があります。
市は、この古墳を葛城氏の祖とされる葛城襲津彦の墓の有力な候補としています。
巨大な古墳だけを見ると、強大な豪族がいた土地だった、という話で終わってしまいます。
しかし、この地域で見つかっているものは古墳だけではありません。
南郷遺跡群では、生活の跡、祭祀の跡、大型建物、首長の居館と考えられる施設、そして金属器を作った痕跡などが確認されています。
しかも渡来系の文化を強く持つ集落もありました。
ここから見えてくるのは、一人の豪族が山の上から人々を支配している景色ではありません。
住む人がいる。
農業をする人がいる。
金属を加工する人がいる。
物を運ぶ人がいる。
祭祀を行う人がいる。
そして海の向こうからやって来た人々もいる。
さまざまな人が同じ地域で暮らし、それぞれの仕事を持っていた姿です。
巨大な古墳を造るにも同じことが言えます。
石を切る。
土を運ぶ。
木を加工する。
埴輪を焼く。
食料を準備する。
一人の権力者が命令しただけでは、巨大な古墳はできません。
何百、何千という人の仕事をつなぐ仕組みが必要です。
葛城氏の力とは、武力や血筋だけだったのでしょうか。
むしろ、多くの人や技術が集まる土地をつくり、それぞれの仕事を結びつける力があったからこそ、大きな地域社会が成立したのではないでしょうか。
葛城氏を知る手がかりは、古い系図だけではありません。
土地を歩き、古墳や遺跡を見ると、その名前の後ろにいた無数の人々の姿が見えてきます。
歴史を作ったのは、名前が残った人だけではありません。
その土地で毎日手を動かしていた人たちも、一緒に歴史を作っていたのだと思います。