山越えのルートはどう選ばれたのか
山を越える道は、地図の上にまっすぐ線を引けばできるものではありません。
人が実際に歩ける場所でなければ、道にはなりません。
急すぎる斜面。
崩れやすい場所。
水が取れない場所。
荷物を持って通れない場所。
そういう場所は避ける必要があります。
だから山越えの道には、人が長い時間をかけて選んだ理由があるはずです。
その一つが、葛城と河内を結ぶ竹内峠です。
奈良県は、竹内街道について、竹内峠を越えて大阪府堺市へ続く道であり、
『日本書紀』に「難波より京へ大道を置く」と記された、日本最古の官道として
知られていると説明しています。
さらに奈良盆地を東西に走る横大路へつながり、難波と飛鳥を結ぶ道として
利用されました。
ただ、私はここで一つ考えたいことがあります。
官道として整備されたから、その場所に道ができたのでしょうか。
それとも、それ以前から人が通りやすい場所だったから、後に大きな道として
整えられたのでしょうか。
竹内峠は金剛山地を越えます。
奈良盆地から河内側へ抜けるには、山を越えなければなりません。
その中で人や荷物が通れる場所は限られます。
何度も人が通る。
物を運ぶ。
途中で休む。
集落ができる。
そして、その道がさらに多くの人に使われる。
そういう積み重ねの後で、正式な街道として整えられた可能性も考えられます。
葛城市は、竹内街道周辺の竹内遺跡から、初期須恵器や朝鮮半島系土器、
陶質土器などが確認されていることを紹介しています。
これを見ると、この道の周辺には人だけでなく、物や技術も動いていたことが分かります。
須恵器を作る技術。
金属を扱う技術。
農耕の知識。
言葉。
祭り。
そうしたものも、人と一緒に峠を越えていったのでしょう。
さらに、竹内街道の東側には横大路があります。
長尾周辺は、竹内街道、横大路、長尾街道、下市街道などがつながる場所として
葛城市から紹介されています。
つまり、山越えのルートは一本の道だけで完結していません。
峠を越えた先に別の道があり、そこからさらに人が各地へ分かれていきます。
海から来た人が難波へ入る。
河内を通る。
竹内峠を越える。
奈良盆地へ入る。
さらに横大路を東へ進む。
そんな人の流れがあったとすれば、技術や文化が広がっていく道筋も見えてきます。
山越えの道は、誰かが突然決めたものではなく、
水がある。
傾斜が比較的緩い。
荷物を運べる。
その先に人が暮らせる土地がある。
そういう条件を、人が何世代もかけて選び続けた結果だったのではないでしょうか。
そして、人が選び続けた道だからこそ、後に街道になり、神社が置かれ、集落が育ち、
さらに多くの人を呼び込む道になったのではないでしょうか。