筑紫君磐井の謎|なぜ九州の巨大勢力はヤマト王権と戦ったのか。反乱と記された戦いの背後に何があったのか【7】
13. 岩戸山古墳と今城塚古墳|二つの巨大古墳が示す政治と技術の違い
ここで、前回取り上げた今城塚古墳と、今回の岩戸山古墳を比較してみましょう。
今城塚古墳は、大阪府高槻市に存在する全長約190メートルの前方後円墳です。
継体大王の墓である可能性が高いと考えられています。
一方、岩戸山古墳は、福岡県八女市に存在する墳丘長約135メートルの前方後円墳です。
筑紫君磐井の墓であるとする見方が有力です。
両者は、ともに6世紀前半に築かれたと考えられる大規模な古墳です。
しかし、その装飾や構造には違いがあります。
今城塚古墳では、人物や馬、鳥、家などを表現した大量の埴輪が発見されています。
また、埴輪製作に関係する工房や窯の存在から、大規模な生産活動を考えることができます。
一方、岩戸山古墳では、埴輪に加えて、石人や石馬、石盾など、大量の石製品が用いられていました。
さらに、別区という特徴的な施設も存在しています。
両者に共通しているのは、巨大な古墳を造るために、多くの人々の労働力と高度な技術が必要だったということです。
そして、異なっているのは、その権威を表現するために利用された製品や装飾の特徴です。
近畿地方の王権を中心とする古墳文化と、九州の有力者たちが築いた古墳文化。
そこには共通する要素がありながら、地域による違いも見られます。
この違いを、単純に技術力の優劣として考えることはできません。
粘土を成形し、焼成して大量の埴輪を作る技術。
大きな石材を加工し、人物や動物を表現する技術。
それぞれに異なる材料の性質があり、製作工程があり、必要な経験があります。
そして、どのような製品を作るかという選択には、その地域の文化や価値観も関係していた可能性があります。
では、今城塚古墳と岩戸山古墳を築いた人々は、互いの技術や文化を知っていたのでしょうか。
両地域の間には、人や物資の交流が存在していたと考えられます。
しかし、それぞれの古墳の製作に関わった職人たちが、直接交流していたかどうかまでは分かりません。
また、今城塚古墳と岩戸山古墳の築造時期が近いことは重要ですが、それだけで両者の被葬者が同時期に直接対立していたことを証明できるわけではありません。
それでも、二つの巨大古墳の存在から、6世紀前半の日本列島には、近畿と九州の双方に、大規模な土木工事や専門的な生産活動を実現する力が存在していたことが分かります。
政治的な力を考えるとき、その地域がどのようなものを作り、どのような技術を持っていたのかという視点も欠かせません。
14. 磐井の戦いの後|九州の政治と交流はどう変わったのか
磐井の戦いが終わった後、九州の政治的な状況はどのように変化したのでしょうか。
『日本書紀』によれば、磐井の息子である葛子が糟屋屯倉を献上したとされています。
この記述からは、王権が九州北部における土地や物資の管理に、より深く関わるようになった可能性が考えられます。
ただし、実際にどのような仕組みが成立したのか、その範囲がどこまで及んだのかについては、明らかになっていません。
また、磐井の戦いによって、ヤマト王権が九州全域を完全に支配するようになったと断定することもできません。
各地には、その後も有力な地域勢力が存在していました。
政治的な関係が変化したとしても、地域社会のすべてが短期間に入れ替わったわけではなかったでしょう。
一方、考古資料には、興味深い変化が見られます。
岩戸山古墳で大きく発達した石人・石馬文化は、その後、急速に衰退していったと考えられています。
これを、磐井の勢力が敗れたことによる政治的な変化と結びつける見方があります。
もし石人・石馬が特定の地域勢力の権威を表す重要な文化だったのであれば、その勢力の政治的な立場が変化することで、石製品の製作や利用が減少した可能性があります。
しかし、石人・石馬文化の衰退が、王権によって直接禁止されたためだったと証明されているわけではありません。
古墳の形や葬送儀礼、社会的な価値観の変化など、他の要因も考えられます。
また、地域の有力者たちが新しい政治的な関係に適応する中で、権威を表現する方法そのものが変化していった可能性もあります。
ここで重要なのは、政治的な変化が、ものづくりにも影響を与えることがあるという点です。
ある製品が必要とされなくなれば、その製品を作る仕事は減少します。
一方、新しい製品や技術が求められるようになれば、それに対応した生産活動が生まれることもあります。
石人・石馬の製作に携わっていた人々は、その後どうなったのでしょうか。
別の石製品を作る仕事へ移ったのでしょうか。
石棺や建築に関係する仕事へ技術を応用したのでしょうか。
それとも、製作技術そのものが次第に受け継がれなくなっていったのでしょうか。
具体的な職人たちの生涯を知る資料は残されていません。
しかし、石製品が姿を消していく背景には、その製作に関わっていた人々の仕事や暮らしの変化も存在していたはずです。
歴史に記録されるのは、王や豪族の戦いです。
けれども、政治の変化によって影響を受けるのは、そうした権力者だけではありません。
製品を作り、材料を運び、地域社会を支えていた人々もまた、変化する環境の中で生きていたのです。