消えた王たちの交流――吉備・播磨・但馬・丹後を結ぶ古代の道
――王墓に残された異郷の土器。そこに誰がいたのか
約1800年前。
出雲の有力者が亡くなりました。
その人物を葬るため、大きな墳丘墓が築かれました。
人々は墓の周囲に集まり、土器を使った儀礼を行ったと考えられています。
やがて長い年月が流れ、集まった人々の名前も、そこで交わされた言葉も失われました。
しかし、墓の上には、あるものが残されていました。
出雲ではつくられていなかった形式の土器です。
一つは吉備に特徴的なもの。
もう一つは、丹後や越につながる特徴を持つものでした。
これは、島根県出雲市にある西谷3号墓の発掘調査で確認された事実です。
そして島根県古代文化センターは、これらの土器が葬送儀礼に使われたことから、遠方の地域から葬儀に参加した人々がいたと考えています。
ここで、思いがけない疑問が生まれます。
出雲の有力者が亡くなったことを、遠く離れた吉備や越の人々は、なぜ知ることができたのでしょうか。
もし葬儀に参加していたなら、知らせを届ける人がいて、そこへ向かう道もあったはずです。
そして、遠くまで出向いて弔うだけの関係があったことになります。
古代の日本列島は、私たちが想像する以上に深くつながっていたのではないでしょうか。
吉備に築かれた、巨大な墓
出雲から南へ目を向けてみます。
中国山地を越えた先に広がる、現在の岡山県周辺。
古くから吉備と呼ばれてきた地域です。
倉敷市には、楯築墳丘墓という巨大な墓があります。
築かれたのは弥生時代後期。
全長は約80メートルと推定され、同じ時代の墳丘墓としては全国最大級です。
その埋葬施設では、木棺の底に総重量32キログラムを超える大量の水銀朱が敷かれていました。
さらに、鉄剣や玉類が納められ、墳丘上からは特殊器台と呼ばれる祭祀用の土器も見つかっています。
巨大な墓を築き、大量の朱を用意し、特別な品々をそろえる。
それだけの作業を実現するには、多くの人々の協力が必要だったでしょう。
ここで考えたいのは、墓の大きさだけではありません。
これほど多くの人々が、なぜ一人の人物のために働いたのでしょうか。
強い命令があったのでしょうか。
それとも、地域の人々から特別な尊敬を集める人物だったのでしょうか。
墓は、その人物の名前を教えてくれません。
しかし、そこに費やされた仕事の大きさは、当時の吉備の社会が持っていた力を伝えています。
出雲の墓に残された、吉備の儀礼
そして、不思議なつながりが現れます。
楯築墳丘墓で使われていた特殊器台や特殊壺と関係する土器が、出雲の西谷墳墓群からも発見されているのです。
吉備と出雲。
山を隔てた二つの地域で、葬送儀礼に共通性が見られる。
しかも、その関係は一時的なものではありません。
島根大学が紹介した研究では、2世紀後半頃に吉備の楯築墳丘墓と出雲の西谷3号墓との間に、埋葬施設や副葬品の共通性が認められるとされています。
さらに3世紀頃になると、吉備では山陰系の土器が数多く出土するようになります。
その背景には、山陰から吉備へ移動してきた人々がいたと考えられているのです。
ここは大きな手がかりです。
単に吉備の土器が出雲に運ばれただけではない。
時代が進むと、山陰の文化を持つ人々が吉備へ移動した様子まで浮かんできます。
なぜ、人々は移動したのでしょうか。
交易のためだったのでしょうか。
婚姻によって親族の土地へ移ったのでしょうか。
それとも、争いによって故郷で暮らせなくなった人々もいたのでしょうか。
この時代は、中国の歴史書が倭国の争乱を伝える時期とも重なっています。
人々の移動と、各地の政治的な変化は、どこかで結びついていたのでしょうか。
日本海と瀬戸内海。その間にいた人々
吉備と出雲の交流を考えるとき、現在の兵庫県にあたる地域も見逃せません。
但馬、丹波、播磨、淡路、摂津。
これらは現在では同じ兵庫県内の地域ですが、古代には自然環境も交通路も異なっていました。
但馬は日本海へ開かれています。
播磨は瀬戸内海に面しています。
丹波は山々の間を通じて、各地域を結びます。
淡路島は、本州と四国の間に位置する海上交通の要衝です。
現在の地図では、一つの県に収まっている地域。
しかし古代の人々にとっては、海、山、川によってつながる、それぞれ独自の暮らしを持つ土地でした。
そして、日本海から瀬戸内海へ向かうには、これらの地域が重要な役割を果たしたと考えられます。
そこで、丹後に目を向けると、驚くような遺跡が現れます。
丹後に眠っていた、豪華な頭飾りの人物
京都府京丹後市の赤坂今井墳墓。
築かれたのは2世紀末から3世紀前半頃。
ちょうど倭国大乱と、その後の政治的な変化を考えるうえで重要な時代です。
この墳墓は東西約36メートル、南北約39メートル。
墳丘上には複数の埋葬施設がありました。
その一つから、非常に豪華な頭飾りが発見されています。
ガラス製の勾玉や管玉、碧玉製の管玉を組み合わせたものです。
しかも、これらの玉は、もともとの装着状態が分かる形で残されていました。
そこには鉄剣やヤリガンナも副葬されていました。
さらに驚くのは、ガラス管玉の成分です。
古代中国で使われた青色顔料「漢青」の主成分である、ケイ酸銅バリウムが含まれていたのです。
日本海沿岸の丹後に、中国の技術文化と関係する素材が届いていた。
しかも、その素材は特別な人物の頭飾りに使われていました。
この人物は、どんな立場だったのでしょうか。
広い交易を取りまとめる一族の人物だったのでしょうか。
地域の祭祀を担う存在だったのでしょうか。
それとも、遠い土地の有力者と婚姻によって結ばれていたのでしょうか。
被葬者の名前は分かりません。
けれども、その頭飾りは、丹後が広大な交流圏の中にあったことを静かに伝えています。
淡路島には、鉄を加工する集落があった
ここで、舞台を日本海から瀬戸内海へ移します。
兵庫県淡路市の五斗長垣内遺跡。
弥生時代後期、標高約200メートルの丘陵上に営まれた鉄器製作の集落です。
発掘調査では、23棟の竪穴建物跡が見つかりました。
建物には大きさや炉の有無などの違いがあり、それぞれに異なる役割があったことがうかがえます。
遺跡からは、鉄鏃、鉄斧、刀子、鑿状鉄器、錐、針、鉄素材の裁断片などが出土しています。
さらに、鉄を加工する際に使われたと考えられる敲石、台石、砥石も残されていました。
注目したいのは、製品だけではなく、加工途中の鉄片まで見つかっていることです。
ここでは完成した鉄器を使っていただけではなく、材料を加工して道具をつくっていたのです。
そして、大型の板状鉄斧については、朝鮮半島から運ばれたものと考えられています。
海の向こうから鉄素材や工具が届き、淡路の人々が自分たちの技術で加工する。
これも古代のものづくりの現場です。
越では碧玉や翡翠の加工。
青谷では木工や玉作り。
淡路では鉄器製作。
それぞれの土地で技術を磨く人々が、海や陸の道を通じてつながっていた姿が浮かんできます。
交流していたのは、物だけだったのか
ここまで見てきた遺跡を、もう一度並べてみます。
出雲の西谷墳墓群。
吉備の楯築墳丘墓。
丹後の赤坂今井墳墓。
淡路の五斗長垣内遺跡。
越の小羽山30号墓。
それぞれの地域には、独自の文化と技術があります。
それなのに、共通する墓の習慣が現れ、遠方の土器が葬儀に使われ、鉄や玉の素材と技術が各地で確認されています。
ここで、一つの疑問が浮かびます。
これほど広い交流は、誰が、どのように維持していたのでしょうか。
現代のような政府機関や輸送会社があったわけではありません。
しかし、人々は海を渡り、山を越え、物を交換し、技術を伝えていました。
それを何世代も続けるには、相手との信頼関係や、地域を越えた人間関係が必要だったでしょう。
婚姻によって親族が増えれば、遠くの土地にも家族ができます。
交易相手が何世代にもわたって続けば、困ったときに助け合う関係にもなります。
だからこそ、ある地域で争いが起きたとき、人々は以前から知っている土地へ向かうことができたのではないでしょうか。
それは突然の逃亡ではなく、長く続いた交流の延長だったのかもしれません。
そして、倭国大乱の時代が訪れる
2世紀後半。
中国の歴史書は、倭国で長い争乱があったと伝えています。
その頃、各地では大きな墳丘墓が築かれ、有力な人物の存在が目立つようになっていました。
青谷上寺地遺跡には、人々が殺傷された痕跡も残っています。
一方、出雲と吉備の間では、葬送文化の交流が続いていました。
丹後には、大陸とのつながりを示す豪華な副葬品を持つ人物がいました。
淡路では、鉄器製作を担う集落が活動していました。
つまり、この時代の日本列島には、争いだけでは説明できない、多様な人々の暮らしと交流が存在していたのです。
ここで、一つの新しい問いが生まれます。
もともと交流していたクニ同士が争うようになったのか。それとも、別の勢力の争いによって、交流していた人々の暮らしが脅かされたのか。
さらに、その争いを避けて移動する人々もいたとすれば、行き先にはどんな土地が選ばれたのでしょうか。
海や山を越えてたどり着ける場所。
以前から親族や交流相手がいた場所。
そして、新しく生活を築ける土地。
そんな条件を持つ地域へ、人々は移動していったのではないでしょうか。
古代の道は、大和へも続いていた
出雲、吉備、丹後、但馬、播磨、淡路。
それぞれの地域が独自の技術や文化を持ちながら、長く交流を続けてきたことが、各地の遺跡から見えてきました。
そして、この交流の道は、さらに東へ続いています。
河内を通り、山を越えれば、大和へ向かうことができます。
3世紀初頭、大和では纒向遺跡が急速に発展しました。
そこには、東海、山陰、吉備、北陸など、各地との交流を示す土器が残されています。
なぜ、この時代に、離れた地域の文化が大和に集まったのでしょうか。
政治的な支配者が人々を集めたからでしょうか。
それとも、長年交流を続けていた人々が、暮らしやすい土地や安全な場所を求めて移動してきたのでしょうか。
ここで思い出されるのが、奈良盆地に残る、水が引いて陸地が現れたという伝承です。
もし人々が新しく暮らせる土地を得られるようになった時期と、各地の争乱が重なっていたなら。
そして、その土地に、以前から交流していた人々が暮らしていたなら。
大和に新しい中心地が生まれた理由も、これまでとは違う角度から見えてくるのではないでしょうか。
各地に眠る名も知られない有力者たち。
その墓に残された異郷の土器や玉、鉄器。
それらをたどると、王朝の成立以前から広く結びついていた人々の歴史が浮かんできます。
次回は、いよいよ大和盆地へ。
そこには、古い集落連合と、饒速日命、長髄彦に関わる伝承が残されています。
第9話「饒速日命と葛城の人々――大和にあったもう一つの国の記憶」へ続きます。