東大阪の研究開発現場から生産現場までの「ものづくり」なら【株式会社アリス】試作サンプル、切削加工、精密部品加工、可視化部品製作、透明化処理、現物からの製作、単品OK

  • トップ
  • ニュース
  • 河内湖と難波の水路を見ると、大阪は「陸の町」より先に水の交通都市だった

河内湖と難波の水路を見ると、大阪は「陸の町」より先に水の交通都市だった

2013.06.12

今の大阪を見ると、道路や鉄道が張り巡らされた大都市です。

だから古代の大阪を考える時にも、無意識に今の地図を重ねてしまいます。

しかし古代の大阪平野は、今とはかなり違う姿でした。

上町台地の東側には大きな水域が広がり、河内湖と呼ばれる環境が存在していました。

大阪歴史博物館は、『日本書紀』に仁徳天皇の時代、河内湖の水を大阪湾へ抜くため
「堀江」を開いたという記録があることを紹介しています。

また、現在では、もともと存在した自然流路を拡幅した可能性も考えられています。

ここで私は、「誰が堀江を掘ったのか」より先に考えたいことがあります。

なぜ、そこまでして水を動かす必要があったのでしょうか。

河内側の水を大阪湾へ逃がすことができれば、低地の排水が良くなります。

洪水の影響を小さくできる可能性もあります。

そして水路が安定すれば、船を通すこともできます。

人を運ぶ。

食料を運ぶ。

木材を運ぶ。

須恵器を運ぶ。

鉄やさまざまな道具を運ぶ。

重い荷物を大量に動かすなら、陸上より船の方が有利な場合があります。

古代の大阪を、今の道路中心の感覚で見る必要はないのではないでしょうか。

海から大阪湾へ入る。

そこから水路を通る。

河内へ進む。

さらに大和川水系を通じて内陸へつながる。

もちろん、当時のすべての水路や航行範囲を現在から確定することはできません。

しかし少なくとも、水は人を隔てるものだけではありません。

交通路にもなります。

そして水路の周りには人が集まります。

荷物を積み替える人。

船を作る人。

船を直す人。

食料を売る人。

遠くから来た人を泊める人。

そこへ情報も集まります。

すると、港や河岸は単なる交通施設ではなく、人と物と知識が交わる場所になります。

さらに、大川北岸では5世紀後半ごろの竪穴建物跡から土師器や須恵器も確認されています。

これは少なくとも、古墳時代の水辺に人の暮らしが存在していたことを示しています。

大阪は後世になって突然「商人の町」になったのでしょうか。

それとも、もっと古い時代から、水を利用して人と物が集まる土地だったのでしょうか。

河内湖、大阪湾、自然流路、難波堀江といったものを一つの水のつながりとして見ると、
古代大阪の姿はかなり変わって見えます。

大阪は陸上の町になる前から、水を通じて各地を結ぶ大きな交通の結節点だった訳です。

                 一覧へ戻る
アリスの仕事に対する想いを見る オリジナルサンプル制作