新田義貞、藤島の最期。なぜ歴戦の武将は、わずか五十騎で死地へ向かったのか【5】
義貞の墓は、最初から称念寺にあったのか
現在、福井県坂井市丸岡町の称念寺には、新田義貞の墓所があります。
義貞ゆかりの場所として知られ、多くの歴史愛好家が訪れています。
しかし、『太平記』に記されている遺骸の搬送先は、河合荘の往生院です。
では、往生院と称念寺は同じ寺だったのでしょうか。
この問題について、『福井県史』は興味深い検討を行っています。
往生院の住持と称念寺の歴代住持では、記録に残る名前が異なっています。
そのことから、両寺院は当初、別の寺院だったと考えられています。
そして、後に往生院が衰退して称念寺に併合される過程で、義貞の墓も称念寺へ移された可能性が指摘されています。
つまり、現在の墓所がそのまま1338年の葬送場所だったとは限らないのです。
長い歴史の中で、寺院は移転し、統合され、建物や墓所の位置が変わることがあります。
名前だけが残り、かつての場所が分からなくなることもあります。
現在の称念寺に義貞の墓があることと、義貞の遺骸が最初に葬られた場所がどこだったのかは、分けて考える必要があります。
この問題もまた、現代まで残る歴史の謎の一つです。
三百年以上の時を経て、水田から現れた兜
義貞の死から三百年以上が過ぎた1656年。
越前福井藩の時代。
燈明寺畷付近の水田から、農民が一つの兜を掘り出したと伝えられています。
その兜は鉄製で、銀象嵌の装飾を持つものでした。
当時の藩の軍学者によって、新田義貞が着用した兜であると判断されたといいます。
そして1660年。
福井藩主・松平光通は、兜が発見された場所に、新田義貞の戦死を伝える石碑を建立しました。
その場所は、現在の新田塚として知られるようになります。
ここで気になるのは、なぜ三百年以上もの間、兜が地中に残っていたのかということです。
義貞が戦死した際に落ちたのでしょうか。
敵味方の誰かが、その場所に残したのでしょうか。
それとも、まったく別の事情で埋まっていたのでしょうか。
しかし、兜が発見されたときの地層や周囲の出土品を、現在の考古学的な方法によって詳しく記録した資料があるわけではありません。
そのため、兜がどのような経緯で地中に埋まったのかを、確定することは難しいのです。
さらに、その兜には、もう一つ不思議な特徴があります。
兜に刻まれた「元応元年八月」の文字
新田義貞のものと伝えられる鉄製銀象嵌冑には、「元応元年八月」という刻字があります。
元応元年は1319年です。
新田義貞が藤島で命を落とした1338年より、十九年前にあたります。
この文字は、いったい何を意味しているのでしょうか。
兜が製作された年月を示すのでしょうか。
誰かに献上された時期なのでしょうか。
それとも、何らかの別の意味を持つ記録なのでしょうか。
仮に1319年に製作された兜だったとしても、1338年の戦場で使われた可能性がなくなるわけではありません。
武具は一度製作されれば終わりではなく、修理を重ねたり、別の人物へ受け継がれたりすることも考えられます。
一方で、1319年の刻字があるという事実だけでは、それを義貞が所有していたことの証明にはなりません。
同じ時代には、数多くの武士たちがいました。
そのうち誰がこの兜を使っていたのかを確かめるためには、刻字以外の証拠も必要です。
現在、この兜は義貞所用と伝えられる重要な文化財として、藤島神社に伝わっています。
しかし、伝来していることと、持ち主が確定していることは同じではありません。
ここにも、歴史を調べる面白さと難しさがあります。
物そのものが残っていても、それだけですべての疑問が解決するわけではないのです。