東大阪の研究開発現場から生産現場までの「ものづくり」なら【株式会社アリス】試作サンプル、切削加工、精密部品加工、可視化部品製作、透明化処理、現物からの製作、単品OK

  • トップ
  • ニュース
  • 敗れた一族を守るため、弓を取った女性。板額御前の知られざる人生【3】

敗れた一族を守るため、弓を取った女性。板額御前の知られざる人生【3】

2015.03.04

鳥坂城。山そのものが守りとなる城

鳥坂城は、現在の新潟県胎内市にあった中世の山城である。

その場所は、鳥坂山から続く山地の一角に位置している。

現在残る城跡の遺構には、後の時代に整備されたものも含まれているため、1201年当時の城の姿を正確に復元することは難しい。

それでも、なぜこの場所に城が築かれたのかは、地形から考えることができる。

山城には、平地の城とは異なる利点がある。

敵が大軍で攻め寄せてきても、急な斜面を一度に駆け上がることは難しい。

狭い尾根や山道では、大勢の兵士を同時に展開することもできない。

守る側は、地形を利用することで、兵力の不足を補える場合がある。

一方で、山城には弱点もある。

長期間にわたって包囲されれば、水や食糧の確保が問題になる。

外部との連絡を断たれれば、援軍を呼ぶことも難しくなる。

山城は、そこにいるだけで安全な場所ではない。

土地を熟知し、限られた人員や物資をどう使うかによって、その強さは変わってくる。

板額御前たちが鳥坂城に立てこもったとき、どの程度の食糧や武器を備えていたのかは、はっきりしていない。

しかし、幕府側が軍勢を派遣して攻撃したことから、この城が反乱の重要な拠点だったことは分かる。

討伐軍を率いたのは佐々木盛綱。

源頼朝の挙兵以来、数々の戦いに参加してきた武将である。

盛綱は、源平合戦の宇治川・瀬田の戦いに関連して語られることも多く、鎌倉幕府の成立に関わった人物だった。

そして1201年、今度は幕府の側に立ち、越後の城氏を討つことになる。

ここにも、時代の変化が見えてくる。

かつて源氏と平氏の争いの中で戦っていた人々が、今度は幕府の内部秩序を守るため、別の戦いに向かっている。

幕府という新しい政治体制が成立しても、それを維持するための争いがなくなったわけではなかった。

そして、その争いの最前線に、板額御前が立つことになったのである。

敵を射抜き続けた女性

『吾妻鏡』建仁元年五月十四日条には、板額御前の戦いぶりが記されている。

板額は矢倉に立ち、敵兵に向かって弓を放った。

その技術は父や兄たちを上回るほどで、放った矢はほとんど外れることがなかったという。

板額の弓に当たった者は、命を落としたとまで記されている。

ここには、後世の女武者の物語とは異なる緊迫感がある。

鳥坂城を攻める兵士たちにとって、板額の弓は現実の脅威だった。

城へ近づこうとすれば、どこから矢が飛んでくるか分からない。

守る側は、高い場所から敵の動きを見渡すことができる。

攻める側は、上方から狙われながら斜面を進まなければならない。

もし板額が実際に優れた射手だったのであれば、その存在は城を守る人々にとって大きな支えだっただろう。

ただし、『吾妻鏡』に描かれた「百発百中」に近い表現を、すべての矢が実際に命中したという統計的な記録として受け取る必要はない。

彼女の能力を強調するための表現だった可能性もある。

それでも、敵方である幕府の歴史書に、その弓の腕前が高く評価されていることは重要である。

胎内市公式ホームページ

+1

ここで、もう少し板額自身のことを考えてみたい。

彼女は、戦場に立つ以前から、弓の扱いに習熟していたはずである。

弓を引くだけなら、教わればできるようになる人もいる。

しかし、動く相手を狙い、緊張した状況でも正確に矢を放つことは簡単ではない。

何度も練習し、失敗を経験し、少しずつ自分の身体の使い方を覚えていく。

そのような時間を重ねてきたからこそ、戦場で能力を発揮できたのではないだろうか。

生まれ持った才能があったとしても、実際に使える技術へと育てるには時間が必要である。

板額は、その時間をどのように過ごしてきたのだろう。

幼い頃から弓を引いていたのだろうか。

父や兄たちに教わったのだろうか。

それとも、自ら練習を重ね、周囲の男性たちを超えるほどの腕前になったのだろうか。

記録がない以上、答えは分からない。

しかし、彼女の武勇を生まれつきの怪力や特別な才能だけで説明してしまうと、その背後にあったかもしれない長年の努力が見えなくなる。

私たちは、そこにも目を向けてみたい。

                 一覧へ戻る
アリスの仕事に対する想いを見る オリジナルサンプル制作