敗れた一族を守るため、弓を取った女性。板額御前の知られざる人生【2】
城氏の運命を変えた、木曾義仲との戦い
ここで、私たちは再び木曾義仲の時代に戻ることになる。
1181年、越後の城氏は、信濃で勢力を拡大していた木曾義仲と戦った。
横田河原の戦いである。
現在の長野県長野市周辺で起こったとされるこの戦いで、城氏の軍勢は義仲軍に敗れた。
城氏は、平氏政権と結びつきの深い勢力だった。
一方、義仲は源氏の一族として、平氏に対抗する立場にあった。
この戦いは、後の源平合戦の流れを考えるうえでも重要な出来事だった。
城氏側を率いていた城資職については、その名や位置づけが史料によって異なる部分がある。
また、当時の城氏の軍勢がどれほどの規模だったのかについても、軍記物語の数字をそのまま受け取ることは難しい。
しかし、城氏が義仲軍との戦いに敗れ、その後の勢力に大きな影響を受けたことは重要である。
ここで一つの不思議なつながりが生まれる。
巴御前が仕えていたと伝えられる木曾義仲。
その義仲の軍勢によって、大きな打撃を受けた越後の城氏。
そして、城氏の一族の女性だった板額御前。
もし巴御前が実在し、義仲軍と行動をともにしていたのであれば、巴と板額は、互いに敵対する勢力の中にいた可能性がある。
二人が直接戦ったという記録はない。
実際に顔を合わせたかどうかも分からない。
しかし、同じ時代の争いの中で、それぞれ異なる立場に置かれていたかもしれないということは、興味深い。
巴御前の物語を追っていた私たちは、その先で、かつて義仲と敵対した一族の女性に出会ったことになる。
歴史は、一人の人物だけを追いかけていても、なかなか全体の姿が見えてこない。
ある人物にとっての勝利は、別の人物にとっての敗北である。
義仲が勢力を広げていく過程では、そのために土地や立場を失った人々もいたはずである。
板額御前の人生を考えるとき、彼女の一族が経験した敗北にも目を向ける必要があるだろう。
平氏が滅びても、戦いは終わらなかった
1185年、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡した。
源頼朝を中心とする武士たちが、新しい政治の仕組みを築いていく。
しかし、平氏が滅びたからといって、全国の争いが一斉に終わったわけではなかった。
源氏に味方した武士たちの間でも、所領や権限をめぐる対立が起こる。
平氏に属していた武士たちの中にも、新しい政治体制の中で生き残る道を探す者がいた。
一方で、かつての勢力を失い、不満を抱える者もいた。
城氏も、そのような時代の変化に直面していた。
城氏の一族である城長茂は、平氏側に属していた人物として知られる。
しかし、その後、源頼朝のもとで行われた奥州合戦にも参加している。
かつて敵対していた勢力のもとで、新しい役割を得たのである。
これを単に裏切りと呼ぶことはできないだろう。
当時の武士たちは、変化する政治情勢の中で、自分たちの所領や一族を守るため、さまざまな判断を迫られていた。
戦いに敗れたからといって、一族全員がそこで人生を終えるわけではない。
新しい支配者との関係を築き直すこともあった。
過去の敵と協力することもあった。
しかし、その新しい関係が、いつまでも安定して続くとは限らない。
1200年、鎌倉幕府を支えていた有力御家人、梶原景時が失脚し、一族とともに討たれた。
城長茂は、この梶原景時と関係が深かったとされる。
その翌年、城長茂は京都で幕府に対抗する動きを起こし、命を落とした。
そして、越後では城資盛が挙兵した。
その戦いに、板額御前が加わったのである。
ここで考えたいのは、板額が何のために弓を取ったのかということである。
幕府への反感だったのだろうか。
失われた一族の勢力を取り戻そうとしたのだろうか。
それとも、甥にあたる資盛や、残された一族の人々を守るためだったのだろうか。
それらの事情が重なっていた可能性もある。
しかし、板額自身が何を考えて戦いに加わったのかを伝える言葉は、残されていない。
だからこそ、私たちは一つの理由に決めつけないでおきたい。
ただ、彼女が立っていた鳥坂城には、守ろうとした人々がいたはずである。
それがどのような人々だったのか。
次に、戦いの舞台となった鳥坂城を見ていこう。