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粛慎とは誰だったのか――北海道・樺太・大陸を結んだ謎の海洋民

2015.10.11

――日本書紀に現れた正体不明の人々と、オホーツク文化が残したもう一つの歴史

西暦660年。

日本海の北方で、二つの船団が向き合っていました。

一方は、朝廷から派遣された阿倍比羅夫の船団。

もう一方は、『日本書紀』に「粛慎(みしはせ・あしはせ)」と記された人々の船団でした。

粛慎の人々は、船に羽をつけた旗のようなものを掲げ、海岸に近づいてきたと伝えられています。

やがて、一艘の船から二人の老人が降りてきました。

海岸には、布や武器、鉄などが置かれていました。

老人たちは品物を確かめ、いったん持ち帰ります。

ところが、しばらくすると再び姿を現し、持っていった品物を元の場所へ戻したのです。

一体、何が起きていたのでしょうか。

取引の条件が合わなかったのでしょうか。

互いの言葉が通じなかったのでしょうか。

それとも、相手の意図を理解したうえで、申し出を拒否したのでしょうか。

『日本書紀』は、この不思議な交渉の様子を伝えています。

しかし、最も重要なことは教えてくれません。

粛慎とは、そもそも何者だったのでしょうか。

彼らはどこから来て、どのような土地で暮らしていたのでしょうか。

この疑問を追いかけると、日本列島の北側に広がっていた、もう一つの大きな交流世界が見えてきます。

粛慎という名前は、日本だけのものではなかった

粛慎という文字は、もともと中国の古代史料にも登場します。

中国東北部のさらに北東に暮らしていた人々を表す名称として知られています。

しかし、ここで注意したいことがあります。

中国の古代史料に登場する粛慎と、日本の『日本書紀』に登場する粛慎が、本当に同じ人々だったのかは分かっていません。

古代の人々は、自分たちが直接知らない遠方の集団について、以前から知られている名前を当てはめることがありました。

『日本書紀』でも、中国の歴史書に由来する名称を使って、北方の人々を記録した可能性があります。

つまり、粛慎という文字が同じだからといって、同じ民族や国家を指しているとは限らないのです。

では、日本側の記録に登場する粛慎は、どのような人々だったのでしょうか。

手がかりになるのが、北海道や樺太で発見された考古学的な資料です。

北海道には、異なる文化を持つ人々が暮らしていた

古代の北海道は、一つの文化だけで構成されていたわけではありません。

縄文文化の後には、続縄文文化が発展しました。

その後、北海道の中央部や南部を中心に擦文文化が広がっていきます。

一方、北海道の北部や東部には、それらとは異なる特徴を持つ文化が存在していました。

オホーツク文化です。

この文化は、おおむね5世紀頃から北海道へ広がり、北海道では9世紀頃まで続いたと考えられています。

樺太などでは、さらに後の時代まで関連する文化が存在しました。

ここで興味深いのは、オホーツク文化の分布です。

北海道だけではありません。

樺太。

アムール川河口部。

千島列島。

オホーツク海を囲む広い地域に、その文化の痕跡が残されています。

現在の国境で分ければ複数の地域になりますが、当時の人々にとっては、海を通じて結びついた生活圏だった可能性があるのです。

では、その人々はどのように暮らしていたのでしょうか。

海で生きるための技術

オホーツク文化の大きな特徴は、海の資源を積極的に利用していたことです。

遺跡からは、さまざまな魚や海獣の骨が見つかっています。

アザラシ。

トド。

オットセイ。

そして、ニシンやホッケなどの魚類。

海で生きる動物を捕獲し、それを生活に利用していたのです。

しかし、海獣を捕ることは簡単ではありません。

大型の海獣を捕獲するには、道具だけでなく、海の状態を理解する知識が必要です。

風向き。

潮流。

動物が移動する季節。

安全に船を出せる場所。

そして、獲物を持ち帰るための方法。

こうした知識は、一度の経験だけで身につくものではなかったでしょう。

長い時間をかけて、世代から世代へと受け継がれてきたはずです。

また、漁労や狩猟に使われた骨角器などからも、人々の加工技術を知ることができます。

オホーツク文化を担った人々は、厳しい自然環境の中で生活するための技術を発達させていたのです。

寒い地域に暮らしていたから、文化が遅れていたわけではありません。

その環境に適した技術と知識が必要だったのです。

不思議な住居と、クマの骨

オホーツク文化の遺跡には、もう一つ特徴的なものがあります。

住居の中に残された動物の骨です。

特に、クマの頭骨や下顎骨などが集められた場所が確認されています。

一般に骨塚と呼ばれるものです。

これらは、単に食べた後の骨を捨てたものとは異なる扱いを受けていたと考えられています。

動物に対する特別な考え方や、儀礼的な行為が関係していた可能性があるのです。

ここで、アイヌ文化との関係が気になります。

後のアイヌ文化には、クマを特別な存在として扱う儀礼が知られています。

では、オホーツク文化のクマに関する儀礼が、そのままアイヌ文化に受け継がれたのでしょうか。

両者の関係は研究されていますが、単純に同一の儀礼だったと断定することはできません。

文化は、人々の移動や交流を通じて変化していきます。

ある習慣が別の文化に取り入れられ、新しい意味を持つようになることもあるでしょう。

大切なのは、似ているから同じだと決めつけるのではなく、いつ、どこで、どのような変化が起きたのかを調べることです。

北海道には、南と北から異なる文化が集まっていた

ここで、日本列島の地図を思い浮かべてみましょう。

北海道の南には本州があります。

その先には、津軽、秋田、越後、能登、さらに西日本へと続く地域があります。

一方、北海道の北には樺太があり、その向こうにはアムール川流域があります。

つまり、北海道には南からつながる交流路と、北からつながる交流路が存在していました。

擦文文化には、本州の古代文化から受けた影響が見られます。

一方、オホーツク文化には、北方の海洋文化との強い関係が認められます。

この二つの文化は、時期によって北海道の異なる地域に広がり、接触することもありました。

そして、両者の文化的な特徴が交わったことを示す遺跡も存在しています。

その一つが、トビニタイ文化と呼ばれる文化です。

北海道東部などで確認され、擦文文化とオホーツク文化の接触や融合を考えるうえで重要な存在です。

ここから分かることがあります。

古代の北海道は、南の文化が一方的に北へ広がった場所でも、北の文化だけで独立していた場所でもなかったのです。

複数の文化が出会い、影響し合う地域でもありました。

粛慎とオホーツク文化は、同じ人々だったのか

ここで、最初の疑問へ戻ります。

『日本書紀』に登場する粛慎と、オホーツク文化を担った人々には関係があったのでしょうか。

この問題については、以前から研究が行われてきました。

特に注目されているのが、北海道南西部の奥尻島です。

奥尻島の青苗砂丘遺跡では、オホーツク文化に関係する遺物が確認されています。

これは重要な発見です。

オホーツク文化は北海道北部や東部だけに広がっていたのではなく、日本海側の南方へも達していたことになるからです。

一方、『日本書紀』の660年の記事には、粛慎の人々が「弊賂辨嶋(へろべのしま)」という場所へ退いたと記されています。

この場所については、奥尻島など北海道方面に求める説のほか、津軽周辺に求める見解もあります。

所在地は確定していません。

しかし、もし粛慎と呼ばれた人々がオホーツク文化と関係していたなら、日本書紀の記録と考古学の発見が結びつく可能性があります。

実際に、古代国家とオホーツク文化の交流を研究する中で、そのような見方が示されています。

ただし、出土品が見つかったことだけで、そこに暮らしていた人々の民族名まで確定できるわけではありません。

粛慎という文献上の名称と、オホーツク文化という考古学上の分類は、区別して考える必要があります。

両者が関係していた可能性はある。しかし、完全に同一だったと証明されたわけではない。

そこが、現在も残されている重要な謎なのです。

では、なぜ粛慎の人々は南へ来たのか

仮に、粛慎と呼ばれた人々がオホーツク文化と関係する集団だったとしましょう。

そうすると、次の疑問が生まれます。

なぜ彼らは、日本海側の南方まで移動していたのでしょうか。

考えられる理由の一つは、交易です。

北方には、毛皮や海産物などの資源がありました。

一方、本州方面からは、鉄製品などが持ち込まれていました。

互いに異なる品物を必要とする人々がいれば、遠距離の交易が成立する可能性があります。

また、漁労や海獣狩猟に適した場所を求めて、人々が季節的に移動していた可能性も考えられます。

さらに、集団間の争いや、居住地の変化が移動につながったこともあったかもしれません。

ただし、660年の粛慎の船団が、どのような目的でその場所に来ていたのかは分かりません。

ここで注目したいのは、『日本書紀』が彼らを船団として描いていることです。

船を動かす能力を持ち、複数の船がまとまって行動していた。

記録どおりであれば、単に陸地に定住しているだけの集団ではなかったことになります。

海を移動する技術こそ、彼らの活動を理解する鍵になるのではないでしょうか。

海を隔てていても、人々はつながっていた

現在の地図を見ると、北海道、樺太、千島列島は海によって分けられています。

しかし、海を利用する技術を持つ人々にとって、その海は交通路でもありました。

船で移動できれば、陸路では遠回りになる地域同士を結ぶことができます。

もちろん、北方の海は厳しい環境です。

低い気温。

強い風。

流氷。

季節によって大きく変化する海の状態。

安全に移動するには、高度な経験と知識が必要になります。

そして、海を渡る活動が繰り返されれば、地域間に人間関係が生まれます。

誰がどこに暮らしているのか。

どの場所で品物を交換できるのか。

どの季節に船を出せるのか。

どこで水や食料を確保できるのか。

こうした情報も、交易を成立させる重要な資源だったはずです。

ここで、日本海の歴史との共通点が見えてきます。

越から津軽へ。

津軽から北海道へ。

北海道から樺太へ。

さらにアムール川流域へ。

それぞれの地域で同じ船が全行程を航海したとは限りません。

しかし、複数の交易路がつながることで、遠く離れた地域の品物が移動することは可能です。

日本列島の北には、海を通じて東北アジアと結びつく広大な交流世界があったのです。

阿倍比羅夫の船団は、その世界に何をもたらしたのか

660年の記録へ戻りましょう。

阿倍臣は、200艘の船団を率いて北方へ向かったと記されています。

その際、陸奥の蝦夷を船に乗せていたとされています。

ここで重要なのは、朝廷の船団が単独で北方世界に入っていったわけではなかったことです。

すでに北方の事情を知る人々が、船団に加わっていた可能性があります。

そして、渡嶋の蝦夷と呼ばれる人々が、粛慎の船団について情報を伝えています。

これは、朝廷側が北方の人々の協力や情報を得ながら行動していたことを示す記述です。

また、粛慎と渡嶋の人々の間には、何らかの対立が存在していたとされています。

つまり、北方世界には、朝廷とは別の政治的・社会的な関係があったことになります。

そこへ朝廷の軍事力が入り込んだのです。

この出来事を、朝廷による北方征討という一つの言葉だけで説明すると、重要な問題を見落としてしまいます。

朝廷が北へ進出する以前から、北方の人々には独自の交流と対立の歴史が存在していたのです。

品物を返した二人の老人

ここで、冒頭の場面をもう一度考えてみましょう。

海岸に置かれた布や武器、鉄。

それを確かめた二人の老人。

一度は品物を持ち帰り、再び戻してきた行動。

この出来事には、どのような意味があったのでしょうか。

品物が気に入らなかったのでしょうか。

交換条件が折り合わなかったのでしょうか。

それとも、贈り物を受け取ることが、相手に従う意思表示になると理解していたのでしょうか。

『日本書紀』には、彼らがなぜ品物を返したのか、その理由は記されていません。

ただし、何らかの判断を行い、品物を返したという行為そのものは、興味深いものです。

彼らは、ただ攻撃を受けるだけの存在として描かれているわけではありません。

朝廷の船団に近づき、品物を確認し、自分たちの行動を決めています。

その後、交渉は成立せず、戦いへと発展しました。

記録では、粛慎の人々は拠点に立てこもって抵抗したとされています。

戦いの中では、朝廷側の能登臣馬身龍という人物が戦死しました。

そして、粛慎側にも大きな犠牲が出たと記されています。

しかし、その争いに至った原因や、粛慎の人々自身が何を守ろうとしていたのかは、分かっていません。

彼ら自身の言葉による記録が残っていないからです。

歴史に名前が残らなかった北方の人々

ここまで調べてくると、一つの大きな問題に気づきます。

古代の北方世界を知るための文字記録は、主として外部の政治勢力によって残されました。

朝廷は蝦夷と呼びました。

そして、粛慎とも呼びました。

しかし、その人々自身がどのような名前を使っていたのかは、ほとんど分かりません。

どのような言葉を話していたのか。

どのような集団に分かれていたのか。

どの土地を自分たちの生活圏と考えていたのか。

すべてが明らかになっているわけではありません。

そこで重要になるのが、考古学です。

住居跡や土器、道具、動物の骨などから、人々の生活を調べることができます。

また、遺跡の年代や分布を比較すれば、文化がどの方向へ広がったのかを考えることもできます。

ただし、同じ種類の土器を使っていたからといって、必ず同じ民族だったとは限りません。

反対に、異なる土器を使っていても、交流や婚姻によって深く結びついていた可能性もあります。

文化と民族、言語、政治的な集団は、必ずしも一致するものではないのです。

だからこそ、異なる種類の証拠を照らし合わせながら、少しずつ歴史を復元する必要があります。

オホーツク文化は、どこへ消えたのか

では、オホーツク文化を担った人々は、その後どうなったのでしょうか。

北海道では9世紀頃になると、オホーツク文化の特徴を持つ遺跡が減少していきます。

しかし、それは人々が突然消滅したことを意味するのでしょうか。

必ずしも、そうではありません。

北海道東部では、オホーツク文化と擦文文化の双方の特徴を持つトビニタイ文化が成立しました。

異なる文化を持つ人々が接触し、互いに影響を与えた可能性があります。

また、後のアイヌ文化の形成を考えるうえでも、擦文文化とオホーツク文化の関係は重要な研究課題です。

文化が変化するということは、必ずしも人々がいなくなることではありません。

新しい技術を取り入れる。

異なる地域の人々と交流する。

暮らし方が変わる。

次の世代で、新しい文化が生まれる。

そうした変化が、長い時間をかけて起きることがあります。

遺跡から一つの文化の特徴が見えなくなったとしても、そこに暮らしていた人々の歴史まで終わったとは限らないのです。

この点は、古代の越や東北の歴史を考えるうえでも重要です。

越から見た、もう一つの北方世界

ここで、今回の歴史探訪の出発点だった越へ戻りましょう。

古代の越は、日本海を通じて北方と結びつく位置にありました。

7世紀には渟足柵や磐舟柵が設けられ、朝廷の北方政策とも関わるようになります。

そして、『日本書紀』には阿倍比羅夫の北方遠征が記録されています。

しかし、その船団が向かった先は、単に朝廷が支配を広げようとした未開の土地ではありませんでした。

そこには、それぞれの文化を持つ人々が暮らしていました。

海を渡る技術がありました。

交易の仕組みがありました。

異なる集団同士の交流や対立もありました。

さらに、その向こうには樺太やアムール川流域へ続く広大な世界がありました。

朝廷から見れば、北方は政治的な勢力を広げる対象だったかもしれません。

しかし、北方に暮らす人々から見れば、朝廷は南から現れた新しい勢力の一つだったとも考えられます。

この視点の違いは大きいものです。

同じ歴史でも、どちらの側から見るかによって、その意味が変わってくるからです。

日本海の北には、もう一つの歴史があった

粛慎とは誰だったのか。

その疑問に、現在の研究はまだ完全な答えを出していません。

しかし、分かってきたこともあります。

古代の北海道には、複数の文化を持つ人々が暮らしていました。

オホーツク文化を担った人々は、樺太やアムール川流域、千島列島などにつながる広い海洋世界の中で活動していました。

そして、その文化は北海道の日本海側南部にも達していました。

『日本書紀』に登場する粛慎と、こうした人々が関係していた可能性は、十分に検討する価値があります。

ただし、まだ分からないことを、分かったこととして扱う必要はありません。

むしろ、その謎が残されているからこそ、歴史を調べる意味があります。

文字に残された記録と、土の中に残された生活の痕跡。

二つを照らし合わせることで、古代の北方世界が少しずつ見えてきます。

そして、その世界は、朝廷の記録に登場して初めて生まれたものではありません。

はるか以前から、人々は海を渡り、異なる土地と交流していたのです。

歴史書に名前を残した人々だけが、歴史をつくっていたわけではありません。

名前を残さなかった人々もまた、海を越え、技術を伝え、物資を運び、新しい文化を生み出していたのです。

粛慎という名前の向こうにいた人々。

その姿を追いかけることは、古代の日本列島を、朝廷だけを中心とした歴史から、より広い交流の歴史として見直すことにもつながります。

そして、次の疑問が生まれます。

『日本書紀』に登場する「渡嶋」とは、一体どこだったのでしょうか。

北海道だったのでしょうか。

それとも、現在の津軽や下北半島などを含む、別の地理的な世界を指していたのでしょうか。

次の歴史探訪では、古代の記録に残された渡嶋の位置を追いかけます。

古代の人々が見ていた日本列島の地図は、現在の私たちが見ている地図とは違っていたのかもしれません。

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