敗れた人々はどこへ向かったのか――越・諏訪・日高見へ続く道
――追っ手の届かない土地へ。海と山を越えて受け継がれた一族の記憶
遠くの山並みを見つめながら、一行が歩いています。
背中には食料や道具。幼い子どもの手を引き、年老いた家族を支える人もいます。
もう、故郷へは戻れないかもしれません。
争いによって住み慣れた土地を離れ、新しい暮らしを求めて北へ向かう人々。
どこまで行けば安全なのでしょうか。
見知らぬ土地で、どうやって食べていけばよいのでしょうか。
けれども、彼らには一つの希望がありました。
その道の先には、昔から交流してきた人々が暮らしていたのではないか。
これは古代の移住を想像した場面です。
しかし、日本列島には、争いの後に人々が遠方へ移動したという伝承が数多く残されています。
出雲から諏訪へ。
大和から北方へ。
そして、日本海沿岸の越を経て、さらに東北へ。
なぜ人々は、繰り返し北を目指したのでしょうか。
その謎を追うと、歴史書に残された勝敗とは別の、人々のつながりが見えてきます。
逃げる先には、迎えてくれる人々が必要だった
古代の人々にとって、移住とは簡単なことではありません。
現在のような道路も、宿泊施設も、食料品店もありません。
家族を連れて移動するなら、どこに水があり、どの山道が安全で、どこで食料を得られるのかを知る必要があります。
さらに、移住先の人々との関係も重要です。
突然、知らない人々が集落に現れたら、受け入れる側も戸惑うでしょう。
しかし、以前から交流していた相手ならどうでしょうか。
物を交換したことがある。
婚姻によって親族がいる。
共通の祭祀や祖先への信仰を持っている。
そうした関係があれば、話は違ってきます。
「こちらへおいで。土地もあるし、食べていける」
そんな言葉を交わせる相手がいたなら、移住する人々にとって大きな支えになったはずです。
古代の交通路は、単に物資を運ぶ道ではなく、人々が生き延びるための道でもあったのでしょう。
そして、その交通路を考えると、越という地域の重要性が浮かび上がってきます。
越は、なぜ頼れる土地だったのか
越は日本海に面した広大な地域です。
山には森林があり、川には魚がいます。
海からは豊かな魚介類を得られ、各地の平野では農耕が営まれてきました。
しかも、古くから翡翠や碧玉の加工が発達し、遠くの集落と交易していました。
出雲との交流は、四隅突出型墳丘墓という共通する墓制にも残されています。
糸魚川周辺の翡翠は、縄文時代から東北方面にも運ばれていました。
つまり、越は突然現れた地域勢力ではありません。
長い年月をかけて、各地と交流しながら発展してきた地域だったのです。
ここで一つ、重要なことを考えてみます。
もし大和や出雲などで争いが起き、人々が故郷を離れなければならなくなったとしたら。
越に以前から知っている人々が暮らしていれば、そこを目指すことができるでしょう。
そして、越の地域社会が強い結びつきを持っていたなら、外部からの追撃も簡単ではなかったはずです。
越は単なる逃亡先ではなく、人々を迎え入れ、新しい暮らしを築ける土地だったのではないでしょうか。
では、その越から内陸へ向かうと、どこへたどり着くのでしょうか。
糸魚川から信濃へ。山を越える古い道
新潟県糸魚川市。
日本海に面したこの地域は、翡翠の産地として知られています。
ここから姫川に沿って内陸へ進むと、長野県の小谷村や白馬村方面へ向かうことができます。
後世には千国街道、あるいは塩の道と呼ばれた交通路です。
日本海側から塩や海産物を運び、内陸からはさまざまな産物を運びました。
もちろん、後世の街道が、そのまま縄文時代から整備されていたわけではありません。
しかし、日本海側と信濃の間には、はるかに古い時代から人々の交流がありました。
糸魚川産翡翠の広域流通も、その関係を考える手がかりです。
日本海で得られた資源が、山を越えて内陸へ運ばれる。
逆に内陸の人々も、山の道を通って海へ向かう。
そこには、土地の地形を知り、険しい道を歩くことのできる人々がいたでしょう。
そして信濃の中心部へ向かう道の先には、古くから独自の信仰を持つ地域がありました。
諏訪です。
なぜ建御名方神は諏訪へ向かったのか
『古事記』の国譲りの物語。
大国主神の子である建御名方神は、建御雷神との争いに敗れ、信濃の諏訪へ逃れたと伝えられています。
ここで考えたいのは、勝った側が誰だったのかということだけではありません。
なぜ、建御名方神は諏訪を目指したのでしょうか。
出雲で敗れた後、まったく知らない土地へ逃げ込んだのでしょうか。
それとも、以前から関係のあった人々を頼ったのでしょうか。
ここで思い出したいのが、越の姫、沼河比売です。
『先代旧事本紀』には、建御名方神を大国主神と沼河比売の子とする系譜が残されています。
一方、『出雲国風土記』では、大国主神にあたる神と越の姫との間に生まれた子として、御穂須々美命が登場します。
そして御穂須々美命は、美保に鎮座すると伝えられています。
美保は日本海沿岸。
諏訪は信濃の内陸。
しかし、越を間に置くと、二つの地域は交通路によって結ばれます。
出雲から越へ。
越から信濃へ。
この道を考えると、建御名方神の諏訪への移動が、単なる敗走とは違って見えてきます。
越の一族との結びつきが、諏訪へ向かう道を支えていたのではないか。
そう考えると、神々の系譜の中に、古代の人々の移動が見えてきます。
ところが、諏訪には別の神がいた
諏訪大社の歴史を調べると、さらに不思議な伝承に出会います。
洩矢神です。
中世の『諏訪大明神絵詞』には、建御名方神が諏訪へ来た際、もともとその土地にいた洩矢神と争ったという話が残されています。
ここで一つの疑問が生まれます。
建御名方神が諏訪へ到着したとき、そこは誰もいない土地ではなかった。
すでに人々が暮らし、土地を守り、古い信仰を受け継いでいたのです。
では、その人々と、後から来た人々は、どのような関係を築いたのでしょうか。
争いの伝承がある一方、洩矢神につながる守矢氏の祭祀の歴史は、後世まで受け継がれました。
そして諏訪では、建御名方神を祀る信仰も広がっていきます。
後から来た人々の信仰と、もともと暮らしていた人々の信仰が、同じ土地に残されたのです。
ここで思い出されるのは、越や出雲で考えてきた共同体の姿です。
違う地域の人々が出会い、交流し、時には争いながら、新しい関係を築いていく。
古い信仰をすべて捨ててしまうのではなく、それぞれの祖先への思いを守り続ける。
諏訪の歴史には、そうした人々の営みが残されているのかもしれません。
さらに東へ。日高見国という名前
ここで、もう一度古代の歴史書を開いてみます。
『日本書紀』の景行天皇27年条。
武内宿禰が東国から帰還し、天皇へ報告したという記述があります。
そこには、東方に日高見国という土地があり、そこに暮らす人々は勇敢で、広く肥沃な土地を持っていたと記されています。
そして、驚くべき言葉が続きます。
その豊かで広大な土地を、攻め取るべきだというのです。
ここで、考えてみてください。
その土地には、すでに人々が暮らしています。
家族があり、集落があり、祖先から受け継いできた暮らしがあります。
土地が豊かであるということは、そこで暮らす人々が自然の恵みを利用し、長い年月をかけて生活を築いてきたということでもあります。
ところが、外から来た側は、その豊かさを征服の理由として記録していました。
豊かな土地に人々が暮らしていたからこそ、その土地は狙われた。
この記述を読むと、古代の東日本の歴史が違った姿で見えてきます。
日高見国は、単に大和から遠く離れた辺境だったのでしょうか。
それとも、大和の政治勢力とは別に、豊かな土地で独自の社会を発展させていた人々の地域だったのでしょうか。
日高見国は、どこまで広がっていたのか
日高見国という名は、古い記録の中で一つの場所だけを指しているわけではありません。
『常陸国風土記』に関わる伝承では、現在の茨城県南部にあたる信太郡も、かつて日高見国と呼ばれた地域に関係するとされています。
一方、後の時代には、北上川流域を中心とする東北地方との関係が強くなります。
ここで、重要なことが見えてきます。
日高見国という名前の背後には、時代によって異なる地域の人々がいたのではないか。
越も同じです。
越という名は広大な地域を指しますが、そのすべてが最初から一人の王によって統治されていたとは限りません。
海辺の集落。
山間の集落。
大きな川に沿って暮らす人々。
それぞれの共同体が交流によって結びつき、広い地域を形づくっていたと考えられます。
そうした姿を日高見にも重ねると、単一の王国ではなく、多くの共同体による広い生活圏が浮かんできます。
そして、この東北の人々には、さらに古い交流の歴史がありました。
東北には、越より古い交流の記憶も残る
青森県の三内丸山遺跡。
縄文時代の大規模集落として知られています。
この遺跡から、新潟県糸魚川周辺で採れる翡翠が見つかっています。
つまり、越の地域と東北を結ぶ交流は、大和王権が成立するはるか以前から存在していたのです。
しかも、その交流は一方通行だったとは考えにくいものです。
北陸から東北へ石や製品を運ぶ人々がいたなら、東北から北陸へ移動する人々もいたでしょう。
各地の自然環境や資源を知る人々が、長い年月をかけて関係を築いてきたはずです。
では、後の時代に西日本や大和で争いが起き、人々が故郷を離れたとしたら。
北へ続く古い交流の道は、その人々にとって新しい暮らしへの道になったのではないでしょうか。
越を経由して東北へ向かう。
あるいは内陸の道を通じて信濃や関東へ移動する。
そうした移動を考えることで、別々に伝わる古代の物語が一つの地図の上に現れてきます。
長髄彦にも、北方へ続く伝承がある
大和で神武軍に抵抗した長髄彦。
『日本書紀』では、最終的に長髄彦が殺害されたと記されています。
しかし、北方の伝承には、長髄彦やその一族に関係する人々が東北へ移動したという別の物語があります。
その一つが、長髄彦と安日彦を結びつける津軽方面の伝承です。
この話は『東日流外三郡誌』などにも登場します。ただし、この文書の成立や信頼性には大きな論争があり、古代の出来事を直接記録したものとして扱うことはできません。
それでも、ここで調べたいのは、伝承に登場する地名や移動経路です。
なぜ、大和の人物の名前が、遠く離れた北方の物語にも現れるのでしょうか。
どの時代から、その人物と北方を結びつける話が語られるようになったのでしょうか。
そして、地域の神社や祭祀、古い氏族の記録には、別の手がかりが残っていないでしょうか。
人物の名前だけで判断するのではなく、その伝承が伝わる土地と、そこに暮らした人々の歴史を追う。
その調査によって、北方へ移動した人々の実像に少しずつ近づけるかもしれません。
敗れた人々は、何を持っていったのか
もし争いによって故郷を離れた人々がいたなら、彼らは何を持って移動したのでしょうか。
食料。
衣服。
農具や加工道具。
そして、新しい土地で暮らすための知識。
しかし、それだけではなかったはずです。
祖先への祈り。
一族に伝わる祭祀。
家族の歴史。
故郷で何が起きたのかという記憶。
それらも、人々とともに移動したでしょう。
もし故郷で尊敬されていた指導者が争いに敗れたとしても、その人物が人々の記憶から消えるとは限りません。
最後まで家族や仲間を守ろうとした人物なら、なおさらです。
その人を祖先として敬い、親から子へ、子から孫へと語り継いでいく。
新しい土地へ移り住んでも、その一族の誇りは失われません。
そして、祖先への信仰が新しい土地に根づけば、そこに神社や祭祀が残ることもあるでしょう。
政治的な支配者が変わっても、人々が大切にしていた記憶まで消えるわけではないのです。
では、なぜ越は征服されにくかったのか
ここで、物語の最初に戻ります。
越は日本海に面し、豊かな資源を持ち、出雲や東北、内陸の信濃とも交流していました。
広い地域に多くの集落があり、それぞれが独自の暮らしを営んでいたと考えられます。
もし、そうした共同体同士が強い関係で結ばれていたなら、外から来た勢力が簡単に支配できるでしょうか。
一つの集落を襲っても、周囲の集落が助けに来る。
土地を熟知した人々は、山道も川も海岸線も知っている。
そして、必要なものを自分たちでつくり、自然の中で暮らす力を持っている。
支配するには、単に戦闘に勝つだけでは足りません。
人々の暮らしを継続的に管理し、抵抗を抑え、広い地域に支配の仕組みを維持しなければなりません。
しかも越の先には、さらに北へ続く交通路があります。
人々を守る共同体の結びつきこそが、越の強さを支えていたのではないでしょうか。
そう考えると、越は単なる豊かな土地でも、単なる逃亡先でもありません。
多くの人々が交流し、困ったときには助け合い、必要なら新しく暮らす人々を迎え入れる地域だったという姿が見えてきます。
そして、驚くべき歴史のつながりへ
出雲から越へ。
越から諏訪へ。
さらに、関東や東北へ。
ここまでたどってきた道は、特別な戦争のためだけにつくられたものではありません。
縄文時代から人々が物を運び、技術を伝え、交流してきた道です。
その道があったからこそ、後の時代に人々が移動することもできたのでしょう。
海の道。
川の道。
山の道。
そして、それらを知る人々のつながり。
古代日本の歴史を読み解く鍵は、王の名前や戦争の勝敗だけにあるのではありません。
誰が、どこから来て、誰を頼り、どこで新しい暮らしを始めたのか。
そこを追いかけると、これまで別々に見えていた伝承が、思いがけないところでつながり始めます。
そして、もう一つの謎が残ります。
敗れた人々の祖先は、なぜ何百年、何千年も祀られ続けたのでしょうか。
なぜ、支配者が変わっても、古い神々の名前は各地に残ったのでしょうか。
その答えは、意外に単純なのかもしれません。
自分たちの祖先を、誇りに思っていたから。
たとえ土地を失っても、一族の誇りまで手放す必要はなかった。
その記憶が、神社の祭祀や地域の伝承となって、今も受け継がれているのではないでしょうか。
次回は、いよいよ第1部の最終話。
勝者が記した歴史の陰で、人々が何を守り、何を残してきたのか。
神社、古墳、祖先への祈りをたどりながら、これまでの謎を一つにつないでいきます。
第15話「消えた王国、残された祖先の誇り」へ続きます。