越という巨大な謎――大和より前に栄えた日本海のクニ
海の富、技術、そして忘れられた王たち
今から約1900年前。
現在の福井県にあたる土地で、一人の人物が亡くなりました。
その人のために、丘の上に大きな墓が築かれました。
墓の中には、鉄の短剣、ガラスの勾玉、そして数多くの美しい玉が納められました。
驚くのは、それらの品々の出身地です。
鉄の短剣は北部九州、ガラスの勾玉は丹後半島、緑色の碧玉は地元北陸に関係するものとされています。
そして墓の形は、遠く離れた山陰地方に見られる四隅突出型墳丘墓でした。
北部九州、丹後、出雲、越。
これほど離れた地域の文化や品物が、一人の人物の墓に集まっていたのです。
その墓は、福井市の小羽山30号墓。
築造年代は2世紀前半頃。
大和で纒向遺跡が大きく発展する以前のことでした。
この墓に眠っていた人物は、何者だったのでしょうか。
そして、なぜこれほど広い地域とつながっていたのでしょうか。
その答えを探すには、古代の越そのものを見つめ直す必要があります。
豊かな土地に、人が集まらないはずがない
越と呼ばれた地域は、現在の福井県から新潟県に至る北陸地方を中心に、時代によってはさらに広い範囲を指していました。
西には若狭や山陰、東には東北地方。
内陸には山々が広がり、その間を大きな河川が流れています。
九頭竜川、手取川、神通川、庄川、信濃川。
河川が運んだ土砂は平野を形成し、海岸には潟湖や湿地が広がりました。
山には森林資源があり、川には魚がいます。日本海では豊かな魚介類を得ることができます。
しかも、海は遠方へ移動するための道にもなりました。
もちろん、洪水や積雪など、暮らしを脅かす自然条件もあります。
それでも、海、山、川、平野という異なる環境が近接していることは、多様な食料や資源を利用できるという大きな利点でした。
ここで考えたいことがあります。
人々が長い年月をかけて自然環境を理解し、食料を得る技術を磨き、ほかの集落と交流していたなら、この地域はどれほど発展していたのでしょうか。
越の強さは、王や軍隊が登場する以前から、豊かな暮らしの積み重ねによって育まれていたのではないでしょうか。
小さな集落だけでは説明できない遺跡
現在の石川県小松市。
ここに、八日市地方遺跡があります。
弥生時代中期を中心に栄えた、北陸でも最大規模の環濠集落です。
周囲には何重もの濠が巡り、集落の中央を河川が流れていました。
その両岸から、建物跡、墓、さまざまな道具が発見されています。
発掘されたのは、日常生活の品物だけではありません。
玉づくりや木工をはじめとする、専門的なものづくりを示す遺物も見つかっています。
しかも、遠方との交流を示す資料も豊富です。
ここには、農作物を育てる人、道具をつくる人、材料を運ぶ人、交換を担う人など、多くの役割を持つ人々が暮らしていたのでしょう。
大切なのは、濠の存在だけではありません。
これほどの集落を長く維持するには、食料の確保、住まいの建設、水の管理、ものづくり、集落内の協力が必要だったということです。
人々は、ただ自然から食料を得ていただけではありません。
自分たちの暮らしやすい環境をつくり、技術を磨き、集落を発展させていたのです。
そして、この集落が栄えたのは、あの倭国大乱よりも前の時代でした。
越には、王と呼べる人物がいた
再び、小羽山30号墓に戻ります。
この墓は、突出部を含めると長辺が約33メートルに達します。
棺の中からは、100点を超える碧玉製の管玉、ガラス製の玉、鉄の短剣などが見つかりました。
さらに朱が用いられ、墓の上には多くの土器が供えられていました。
福井市は、この墓を単なる地域の有力者の墓ではなく、「越の王墓」と考えられると紹介しています。
ここで不思議なのは、墓に納められた品物の組み合わせです。
北部九州、丹後、北陸。
そして、出雲につながる墓の形。
一人の人物の葬送儀礼の中に、広域の交流が凝縮されています。
この人物は、各地の人々からどのような存在として見られていたのでしょうか。
大きな軍事力を持つ支配者だったのでしょうか。
遠方の集落との交易をまとめる人物だったのでしょうか。
あるいは、人々から信頼され、地域同士の関係を取り持つ人物だったのでしょうか。
その名前は分かりません。
けれども、人々が多大な労力をかけ、特別な品々を集めて送り出した人物が、2世紀の越に存在したことは、墓そのものが物語っています。
出雲と越の関係は、どこまで深かったのか
ここで注目したいのが、墓の形です。
四隅突出型墳丘墓は、出雲を含む山陰地方に特徴的な墓制として知られています。
ところが、同じ形式の墳丘墓が北陸でも発見されています。
しかも、単純に同じ形をまねたわけではありません。
出雲の墓と越の墓には、石の貼り方や埋葬方法に違いがあります。
共通する形式を受け入れながら、地域独自の方法も残していたのです。
福井県史では、こうした共通性について、山陰と北陸の間に擬制的な同族関係や同盟関係が存在した可能性にも言及しています。
ここは非常に興味深いところです。
食料や道具なら、必要に応じて交換できます。
しかし、祖先を葬る墓の形まで共通するということには、どのような意味があったのでしょうか。
亡くなった人物を送る儀式は、残された人々にとって特別なものです。
そこに別の地域と共通する文化が現れる。
出雲と越の人々は、物資だけでなく、一族の記憶や祖先への思いまで共有する関係だったのでしょうか。
もしそうなら、海の向こうにいたのは単なる取引相手ではありません。
困ったときに頼れる人々、婚姻によって結ばれた親族、長い交流を続けてきた仲間だったのかもしれません。
しかし、越は出雲の一部ではなかった
ここで、もう一つ重要なことがあります。
墓の形が共通しているからといって、越が出雲に支配されていたとは限りません。
小羽山30号墓には、出雲の墓とは異なる地域独自の特徴がありました。
同じ文化を共有しながらも、それぞれの地域で独自の方法を守っていた。
この姿は、現代の国家のように、一方が他方を完全に支配する関係とは違って見えます。
複数の集落や有力な地域勢力が、独立性を保ちながら交流していた。
互いに必要なものを交換し、技術や文化を学び合い、場合によっては協力する。
そんな社会が日本海沿岸に広がっていたと考えると、これまでの遺跡のつながりが自然に見えてきます。
しかも、その交流は出雲と越だけで終わりません。
越は北部九州とも丹後ともつながり、さらに東北方面へも続いていました。
一つの王国の領土ではなく、互いにつながる多くのクニが、広大な勢力圏を形づくっていた。
そんな古代日本の姿が浮かんできます。
なぜ、越を目指したのか
ここで、歴史をさらに先へ進めてみます。
後の時代には、中央の政治勢力との争いに敗れた人々が、北陸や東北方面へ向かったという伝承が残されています。
では、なぜ北へ向かったのでしょうか。
逃げるだけなら、山中に身を隠すこともできたはずです。
しかし、家族や仲間を連れて新しい生活を始めるには、それだけでは足りません。
食料を得られる土地。
暮らすための場所。
そして、受け入れてくれる人々。
それらが必要です。
越には、豊かな資源があり、各地との長い交流の歴史がありました。
遠く離れた土地に親族や取引相手がいれば、移住先として頼ることもできたでしょう。
ここで、最初の小羽山30号墓が再び意味を持ち始めます。
すでに2世紀前半の越には、北部九州・丹後・山陰との深いつながりを持つ有力者がいた。
つまり、後の時代に北陸へ向かった人々がいたとしても、それは突然生まれた交通路ではありません。
ずっと以前から、人々が海を渡り、交流を重ねてきた土地だったのです。
越の謎は、まだ始まったばかり
大和で纒向が発展する以前から、北陸には大きな集落と有力者の墓が存在していました。
しかも、その人々は日本海沿岸の各地と深くつながっていました。
では、この広大な交流圏を維持していたのは、どのような人々だったのでしょうか。
どのような技術を持ち、どのような船で海を渡り、何を交換していたのでしょうか。
そして、なぜ後の歴史では、越が古代日本の中心的な勢力として詳しく語られることが少ないのでしょうか。
ここに、これからの探訪で追いかけたい大きな謎があります。
日本の古代史は、大和から地方へ文化が広がったという一方向の歴史だけでは説明できないのではないでしょうか。
越から出雲へ。
出雲から越へ。
さらに丹後、吉備、近江、信濃、東北へ。
海と川と山道を通じて、人々は行き来していました。
その交流が何百年、何千年と積み重なっていたなら、越は日本列島の歴史にどれほど大きな影響を与えていたのでしょうか。
まだ、その全体像は見えていません。
しかし、小羽山30号墓に眠る名前の分からない人物は、確かに一つの事実を伝えています。
大和で大きな政治的中心が形成されるより前に、越には独自の力を持つ社会が存在していた。
その人々は、遠方と交流し、技術を磨き、自分たちの文化を守っていました。
では、越をそれほど豊かにしたものは、いったい何だったのでしょうか。
次回は、翡翠、碧玉、鉄、木工、そして大陸との交流を追いかけます。
第6話「越に集まった技術と人々――古代日本海のものづくり集団」へ続きます。