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海は隔てるものではなく、つなぐ道だった

2015.09.12

――出雲から越へ。日本海に隠された古代の大動脈

日本海に面した小さな港。

まだ夜が明けきらない海辺で、人々が船の準備をしています。

船に積まれるのは、食料、木材、石材、そして遠くの集落へ届ける品々。

今日の風はどうか。潮の流れはどうか。次に立ち寄る港までは、どれほどかかるのか。

船を出す人々は、海の変化を読みながら出発の時を待っています。

今のようなエンジンも、気象予報も、航海用の電子機器もありません。

それでも彼らは海へ向かいました。

なぜでしょうか。

その海の向こうに、会いたい人や、必要なものを交換できる相手がいたからではないでしょうか。

古代の日本海を考えるとき、私たちは現代の地図の見方を一度変える必要があります。

遠いはずの出雲と越

現在の島根県と福井県、石川県、富山県、新潟県。

地図で見れば、ずいぶん離れているように感じます。

山陰と北陸は別々の地方として扱われ、陸路で移動すれば、長い距離を走らなければなりません。

しかし、昔の人々にとってはどうだったのでしょうか。

海岸沿いに港があり、船を出せる場所があれば、日本海を通って次の土地へ向かうことができます。

もちろん、海は決して安全な道ではありません。

突然の強風、高い波、潮流の変化。遭難すれば命に関わります。

それでも人々が海を利用し続けたのは、山や川を越える陸路とは異なる利点があったからでしょう。

船であれば、人だけでなく、重い荷物も運べます。

石材、木材、加工品、食料。

こうした物資を運ぶには、海上交通が大きな力を発揮します。

日本海は地域を隔てる境界ではなく、多くの人々を結びつける交通路だったのです。

雨に濡れると青くなる石畳

島根県松江市の美保関。

日本海に面したこの港町には、美保神社から佛谷寺へと続く「青石畳通り」があります。

昔ながらの家並みの間を歩くと、足元には独特の色をした石畳が続いています。

そして雨が降ると、石の色が変わります。

乾いているときとは違い、濡れた表面が青みを帯びるのです。

実は、この石畳には驚くべき歴史が残されています。

美保神社前の通りに使われた石の一部は、地元で採れた石ではありません。

福井県から海を越えて運ばれてきた、笏谷石という石材なのです。

美保関は江戸時代、北前船の寄港地として栄えました。

その時代に越前から運ばれた石材が、今も神社の前の道に残っています。

周辺で採れる凝灰岩と、遠く越前から届いた石。

その両方が、美保関の町並みをつくっているのです。

一つの石畳の下に、遠い地域との交流の歴史が眠っている。

そう考えると、いつも見ている道も違った姿に見えてきます。

ただし、現在の青石畳通りは江戸時代後期に整備されたものです。

それでも、ここには実際に海を渡って石材を運んだ人々の仕事が残されています。

そして、この事実が一つの疑問を呼び起こします。

これほど大きな物を運ぶ海の道は、もっと古い時代には、どのように利用されていたのでしょうか。

出雲の王墓から見つかった、遠い地域とのつながり

時代を一気にさかのぼります。

約1800年前、弥生時代後期の出雲。

現在の島根県出雲市にある西谷墳墓群には、四隅突出型墳丘墓と呼ばれる大きな墓が築かれていました。

四角い墳丘の四隅が外側へ突き出した、独特の形です。

その中でも西谷3号墓は、当時の出雲の有力者が葬られた墓と考えられています。

発掘調査では、墓の上で祭祀が行われた痕跡が確認されました。

さらに、ここから出土した土器には、吉備や北陸など、遠く離れた地域との交流を示すものが含まれています。

これは何を意味するのでしょうか。

出雲の有力者の墓に、別の地域と関係する品々が残されている。

単なる偶然の産物として片づけるには、興味深い事実です。

遠く離れた人々が儀礼に参加したのでしょうか。

有力な一族同士が婚姻によって結ばれていたのでしょうか。

あるいは、長年の交易によって特別な信頼関係が築かれていたのでしょうか。

その答えを考えるために、今度は越の遺跡へ目を向けてみます。

越にも残る、同じ形の墓

福井県福井市にある小羽山30号墓。

弥生時代後期に築かれた、四隅突出型墳丘墓です。

その形は、出雲を中心とする山陰地方に見られる墳丘墓と共通しています。

同じ特徴を持つ墓が、出雲にも越にも存在していたのです。

しかも、こうした墓の形式は、北陸から山陰の一部に分布しています。

一方、日本海沿岸であっても、但馬や丹後では異なる墓制が見られます。

つまり、日本海沿岸の人々は、すべて同じ文化を持っていたわけではありません。

地域ごとに違いがありながら、特定の地域同士では共通する習慣が受け継がれていたのです。

墓という、祖先や一族の記憶に関わる文化まで共有していたことには、どんな意味があったのでしょうか。

石や食料の交易だけでは説明しきれない、人と人との関係が見えてきそうです。

海を渡ったのは、物だけではない

物資が移動したということは、それを運んだ人々がいたということです。

船をつくる人、操る人、港で荷物を扱う人、取引をまとめる人。

遠方の土地へ向かうには、行き先の地形や港を知ることも重要だったでしょう。

そして、同じ相手と何度も交流していれば、互いの暮らしや事情を知るようになります。

その関係が何世代にもわたって続いたら、どうなるでしょうか。

交易相手が親しい知人になり、婚姻によって親族になることもあったはずです。

暮らしに必要な道具や食料を交換するだけでなく、技術や知識を教え合う機会も生まれます。

そして、ある地域で争いや災害が起きたとき、離れた土地に頼れる相手がいれば、移住という選択ができるでしょう。

故郷を離れる人々にとって、行き先に迎えてくれる人がいることは、どれほど心強かったことでしょう。

ここに、古代の人々の移動を考えるうえで重要な視点があります。

人々は、何も知らない土地へ突然向かったのではなく、以前からつながりのある土地を目指したのではないか。

この問いは、後の時代に伝わる各地の移動や逃亡の物語を読み解くうえでも重要になります。

さらに北へ続く、日本海の道

越の先には、東北地方が広がっています。

縄文時代の青森県・三内丸山遺跡からは、糸魚川周辺で産出する翡翠が発見されています。

大和王権が成立するはるか以前から、北陸と東北は遠隔地の物資を通じてつながっていました。

出雲と越。

越と東北。

そして、その先には北海道があります。

もちろん、すべての地域が一つの政治勢力に属していたわけではありません。

しかし、古くから物が行き来していた以上、その背景には人々の移動と交流の歴史が存在します。

海岸線や河川、山道を知る人々が、それぞれの地域をつないでいたのでしょう。

そう考えると、後に越や日高見と呼ばれた広い地域も、現代の県境で区切られた土地とは違う姿で見えてきます。

なぜ、越だったのか

ここで、今回の探訪における大きな疑問へ戻ります。

なぜ、越はこれほど広い地域とつながっていたのでしょうか。

日本海に面し、豊かな森林と河川を持ち、内陸へ続く道もある。

翡翠などの資源を産出し、それを加工する技術も育まれていました。

大陸、山陰、東北を結ぶ交通路にも位置しています。

食料、技術、交易、そして人々のつながり。

こうした条件が重なっていた地域なら、独自の強い共同体が生まれていても不思議ではありません。

しかし、越について、私たちはまだ十分に知りません。

どのような人々が暮らしていたのか。

どれほど多くの集落があったのか。

地域ごとにどんな技術や文化が発達していたのか。

そして、なぜ後の時代には、争いから逃れた人々の行き先として北陸や東北が繰り返し登場するのでしょうか。

海の道をたどると、越は単なる通過地点ではなく、古代日本の広い交流を支えた重要な地域として浮かび上がってきます。

次回は、いよいよ越そのものを探ります。

豊かな土地、古い集落、優れた技術、広大な交流網。

その姿を具体的に調べていくと、これまで当たり前だと思っていた日本の古代史が、違う角度から見えてくるかもしれません。

第5話「越という巨大な謎」へ続きます。

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