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北条時行とその一族【特別編】

2015.09.08

諏訪大社・御柱祭に隠された古代信仰の謎

巨木を山から曳き下ろす人々。北条時行を守った諏訪一族と、千年以上続く祭祀の秘密

巨大なモミの木が、山の斜面を滑り落ちていく。

その上には人が乗り、周囲には大勢の人々が集まっています。

木遣りの声が響き、張り詰めた綱が解かれると、巨木は土煙を上げながら急斜面を下っていきます。

長野県の諏訪地方に伝わる、諏訪大社の御柱祭。

その中でも特に知られている「木落し」です。

映像で見るだけでも、その迫力に圧倒されます。

しかし、ここで一つの疑問が生まれます。

なぜ人々は、これほど巨大な木を山から運び、神社の四隅に立てるのでしょうか。

なぜ、この祭りは千年以上も続いてきたのでしょうか。

そして、鎌倉幕府が滅亡したとき、北条時行を守った諏訪一族は、この信仰とどのような関係にあったのでしょうか。

調べていくと、御柱祭には古代からの信仰、中世の武士たちの政治、地域の人々の暮らしが複雑に重なっていることが見えてきます。

さらに興味深いのは、現在の御柱祭で最も有名な木落しが、古代から同じ姿で行われていたわけではないということです。

今回は、御柱祭の歴史をさかのぼりながら、北条時行を守った諏訪一族と、諏訪の神々に残された謎を追いかけます。

七年目ごとに行われる巨大な祭り

御柱祭の正式名称は「式年造営御柱大祭」です。

諏訪大社の最大の祭儀として、寅年と申年、数え方で七年目ごと、実際には六年ごとに行われています。

諏訪大社には四つの宮があります。

上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮。

それぞれの宮の四隅に御柱を建てるため、合計16本の巨木が必要になります。

御柱には、山から伐り出されたモミの大木が使われます。

長さは約17メートル、重さは10トン前後にも達します。

これほど巨大な木を、人々が綱を使って運んでいきます。

御柱祭は、単に木を引っ張る催しではありません。

御柱となる木を選び、伐り出し、山から運び出す。

そして里を通って神社へ運び、境内に建てる。

さらに宝殿の造営や遷座など、さまざまな神事が行われます。

人々が協力して巨木を運ぶ姿は、この祭りの象徴になっています。

しかし、現在の華やかな祭りの姿と、その本来の宗教的な意味は、必ずしも同じものではありません。

御柱は何のために立てられるのか

諏訪大社では、御柱がそれぞれの宮の四隅に建てられます。

では、御柱は何を意味しているのでしょうか。

神聖な場所の境界を示しているという説があります。

神を迎えるための柱だったという考え方もあります。

また、古代から続く樹木信仰や、土地を守る神々への祭祀と関係している可能性も指摘されています。

しかし、御柱の起源や本来の意味について、すべてを説明できる確定的な答えがあるわけではありません。

御柱祭の歴史を考えるうえで重要なのは、現在の神社建築だけを見て判断しないことです。

古代の人々は、山や森、巨木など、自然そのものに神聖なものを感じていました。

巨大な木を特別な場所へ運び、立てるという行為にも、そうした信仰が関わっていた可能性があります。

ただし、古代の樹木信仰と現在の御柱祭が、途切れることなく同じ意味を持ち続けてきたと証明されているわけではありません。

ここに、御柱祭の最初の大きな謎があります。

御柱祭は本当に千年以上前から続いているのか

諏訪大社の公式資料では、式年造営の歴史は古代にさかのぼり、804年、桓武天皇の時代から信濃国の総力を挙げて奉仕するようになったと説明されています。

この伝承を知る重要な史料が、1356年に成立した『諏方大明神画詞』です。

この書物には、桓武天皇の時代から寅年と申年に諏訪社の造営が行われていたことが記されています。

つまり、鎌倉幕府が成立するよりはるか以前から、諏訪社には定期的な造営の伝統があったと伝えられているのです。

ただし、ここで気をつけたいのは、『諏方大明神画詞』が1356年に成立した史料だということです。

804年の出来事を、その年に直接記録した文書ではありません。

そのため、804年という年代は、中世に伝えられていた由緒として評価する必要があります。

それでも、この記録には大きな意味があります。

北条時行が活動した14世紀には、すでに諏訪社の式年造営が古い伝統として認識されていたのです。

北条時行の時代にも御柱は立てられていたのか

ここで、北条時行の歴史とつながります。

時行が諏訪氏に保護されたのは、鎌倉幕府が滅亡した1333年です。

諏訪社の式年造営が寅年と申年に行われていたとすれば、時行が活動した時代にも造営の周期が存在していたことになります。

例えば、1334年は戌年ではなく戌年の前年にあたる甲戌年ではなく、甲戌年そのものです。したがって、当時の寅・申年を考える場合は、干支を正確に照合する必要があります。

重要なのは、時行が諏訪にいたとされる時期と、古くから続く祭祀の歴史が重なっているということです。

ただし、時行自身が御柱祭を見た、あるいは参加したことを示す直接的な史料は確認されていません。

諏訪頼重が御柱の曳行を指揮したと断定することもできません。

それでも、時行を保護した諏訪氏が、諏訪社の祭祀と深く関わる一族であったことは重要です。

時行を守った人々の社会には、武士としての役割だけでなく、神を祀るという重要な役割が存在していたのです。

神を祀る一族が、なぜ武士として戦ったのか

諏訪氏は、諏訪社の祭祀に関わる一族でした。

特に上社では、大祝と呼ばれる特別な地位がありました。

中世の諏訪信仰では、大祝は諏訪明神の現人神として崇敬されました。

現人神とは、神が人の姿でこの世に現れた存在を意味します。

単に神社の運営を担うだけではなく、祭祀の中心に位置する特別な存在でした。

しかし、諏訪氏にはもう一つの顔がありました。

武士です。

鎌倉幕府の時代、諏訪氏の一族は北条得宗家に仕える御内人として活動していました。

北条氏が幕府の政治的な力を強める中で、諏訪氏も政治や軍事に関わっていきました。

つまり、諏訪氏は宗教的な権威を持ちながら、現実の政治や戦争にも関わる一族だったのです。

現代では、神社の祭祀と軍事行動は異なる世界の出来事に感じられます。

しかし、中世社会では宗教と政治、土地の支配や軍事が深く結びついていました。

諏訪氏にとって、神を祀ることと、一族や土地を守ることは、必ずしも切り離された問題ではなかったのです。

諏訪明神は、なぜ軍神となったのか

諏訪の神は、農耕や狩猟、水や風などに関係する神として信仰されてきました。

さらに中世には、武士たちから軍神として崇敬されるようになります。

東国の武士たちにとって、戦いの勝利や一族の安泰を神に祈ることは重要でした。

諏訪明神への信仰も、そうした武士たちの世界に広がっていきます。

しかし、軍神を祀っていたからといって、必ず戦争に勝てるわけではありません。

実際、1335年の中先代の乱では、諏訪頼重らは足利尊氏に敗れ、鎌倉で命を落としています。

信仰と戦争の結果は、別の問題です。

それでも、神への信仰が人々の結束や、一族の行動を支える要素となっていた可能性はあります。

そして、こうした宗教的な権威を持つ諏訪氏が、北条時行を守ろうとしたことに、歴史上の興味深い関係が見えてきます。

木落しは、最初から行われていたのか

御柱祭で最も有名な場面が、巨大な木を急斜面から落とす木落しです。

しかし、ここに意外な歴史があります。

諏訪社の式年造営は古代にさかのぼると伝えられていますが、現在のような木落しが、当初から同じ形で行われていたとは限らないのです。

名古屋大学の研究紀要に掲載された御柱祭の研究では、下社の現在の木落し坂を通る曳行が、明治時代以降に定着したことが指摘されています。

江戸時代の下社では、御柱を伐り出す山が現在とは異なる場合がありました。

そのため、現在の木落し坂を通ること自体が、必ずしも古くからの決まった経路ではなかったのです。

さらに、人が御柱に乗って坂を下る行為についても、大正時代に登場したとする伝承が研究で紹介されています。

これが事実ならば、現在の御柱祭を代表する勇壮な場面は、祭りの長い歴史の中では比較的新しい形ということになります。

ここに、歴史を考える面白さがあります。

千年以上の由緒を持つ祭りであっても、そのすべての行事が最初から同じ姿だったわけではないのです。

なぜ危険な木落しが続けられてきたのか

巨大な木を急斜面から下ろす行為には、危険が伴います。

それでも木落しは、現在の御柱祭を象徴する行事となりました。

なぜでしょうか。

巨大な木を山から運ぶには、多くの人々の協力が必要です。

木の重さや地形に応じて、綱を扱い、力を合わせなければなりません。

御柱祭の木遣りも、人々が力を合わせるための重要な役割を持っています。

また、どの地域がどの御柱を担当するかという役割分担もあります。

祭りは、個人の力だけでは成立しません。

地域の人々が、長い準備期間を通して協力することによって実現します。

ただし、木落しが危険であること自体を、祭り本来の宗教的な目的と考えることはできません。

また、危険を冒すことが信仰の深さを示すと、単純に説明することもできません。

御柱祭には、信仰だけでなく、地域の文化や歴史、人々の共同作業としての側面があります。

木落しの形も、そうした社会の中で変化してきたと考える必要があります。

御柱祭を支えたのは誰だったのか

御柱祭の歴史には、もう一つ重要な変化があります。

中世の式年造営では、信濃国全体に課役や費用負担が割り当てられていました。

つまり、諏訪社の造営は、諏訪地方の一部の人々だけで行うものではありませんでした。

信濃国の政治的な秩序とも関わる、大規模な事業だったのです。

その後、時代が進むにつれて、祭りを支える仕組みも変化します。

江戸時代には、高島藩のもとで諏訪郡の村々に役割が割り当てられました。

さらに明治時代以降、地域の人々が共同して祭りを担う体制が整えられていきます。

現在の御柱祭は、諏訪地方の氏子たちが協力して行う大祭です。

ここで興味深いのは、政治的な支配者が変わっても、祭祀そのものは続いてきたということです。

鎌倉幕府。

室町幕府。

戦国時代の武田氏。

江戸時代の高島藩。

そして近代以降の地域社会。

諏訪を取り巻く政治の仕組みは大きく変化しました。

しかし、式年造営という伝統は、その時代ごとの社会に支えられながら受け継がれてきたのです。

北条氏が滅亡しても、諏訪の祭りは続いた

1333年、鎌倉幕府は滅亡しました。

北条高時は東勝寺で自害しました。

しかし、北条時行は生き延びました。

その時行を守ったのが諏訪氏でした。

1335年、諏訪頼重らは時行を奉じて挙兵します。

鎌倉を一時的に奪還しましたが、足利尊氏に敗れ、頼重らは命を落としました。

ここで、諏訪氏の歴史を振り返ってみます。

北条得宗家を支えていた武士としての諏訪氏は、幕府の滅亡によって大きな打撃を受けました。

しかし、諏訪社の祭祀は、それによって終わったわけではありません。

大祝の地位は、その後も受け継がれました。

諏訪明神への信仰も続きました。

そして、御柱祭につながる式年造営も継承されていきました。

一族の政治的な立場は変化しても、地域社会に根ざした信仰や祭祀は続いたのです。

この点は、北条時行と諏訪一族の歴史を考えるうえで重要です。

武士としての諏訪氏と、神を祀る諏訪氏。

その二つの歴史は重なりながらも、まったく同じ運命をたどったわけではありませんでした。

諏訪の神々は、何を守ってきたのか

諏訪大社には、建御名方神に関わる古代の神話があります。

『古事記』では、建御名方神が国譲りの争いに敗れ、諏訪へ至ったと語られています。

また、諏訪の地には、洩矢神をめぐる別の伝承もあります。

諏訪に古くから存在していた信仰と、後から伝えられた神話との関係には、今も多くの謎が残されています。

さらに、御柱を建てる意味についても、複数の説が存在します。

巨木を神聖なものとして扱う信仰。

神域を示すための柱。

神を迎えるための場所。

そうした解釈が重なり合っています。

しかし、どれか一つがすべての答えだと断定することはできません。

それでも、御柱祭が長い年月を経て受け継がれてきたことには、大きな意味があります。

それぞれの時代の人々が、この祭りを続けるために働き、次の世代へ伝えてきたからです。

北条時行を守った諏訪氏と、御柱祭を守る人々

北条時行の歴史を追うと、諏訪氏の人々が何度も登場します。

時行を鎌倉から逃がしたと伝えられる諏訪盛高。

時行を奉じて挙兵した諏訪頼重。

その子・時継。

そして、後に時行を支えたと伝えられる諏訪頼嗣。

彼らは、異なる時代や状況の中で北条氏との関係を持っていました。

一方、御柱祭にも長い年月をかけて祭祀を支えた人々がいました。

巨木を選ぶ人。

山から伐り出す人。

綱を用意する人。

木を曳く人。

神事を執り行う人。

それぞれが役割を担い、一つの祭りを成立させています。

もちろん、現在の御柱祭を支える人々と、中世に北条時行を守った武士たちを、同じ目的で行動した人々として扱うことはできません。

時代も、社会も、役割も異なります。

しかし、一人の人物の力だけでは成り立たないという点には、共通するものがあります。

北条時行が生き延びた背景にも、多くの人々の協力がありました。

御柱祭も、多くの人々が役割を引き受けることによって、長い歴史を重ねてきたのです。

千年以上続く祭りが教えてくれること

御柱祭を調べると、一つの興味深い事実に気づきます。

祭りは長く続いてきました。

しかし、その形は時代によって変化してきました。

古代に起源を持つと伝えられる式年造営。

中世の信濃国全体による奉仕。

戦国時代の武将たちによる保護。

江戸時代の村々による役割分担。

そして近代以降の氏子たちによる祭り。

現在の木落しの姿にも、比較的新しい歴史が含まれていることが研究によって指摘されています。

つまり、長く続くことは、何も変わらないことではありません。

時代が変われば、祭りを支える人々も変わります。

社会の仕組みも変わります。

それでも、祭祀の中心となる伝統は受け継がれてきました。

北条時行が生きた南北朝時代も、大きな変化の時代でした。

一つの政権が滅亡し、新しい政権が生まれ、敵と味方が入れ替わりました。

その中で、人々は自分たちの一族や土地、信仰を守ろうとしていました。

そして、諏訪の祭祀はその戦乱を越えて続いていきました。

最後に残された三つの謎

御柱祭には、今も答えの定まらない問題が残されています。

第一に、御柱を建てる祭祀は、どこまで古くさかのぼるのでしょうか。

804年という伝承以前にも、同じような祭祀が行われていたのでしょうか。

第二に、御柱は本来、何を意味していたのでしょうか。

神聖な場所の境界だったのでしょうか。

神を迎えるための柱だったのでしょうか。

あるいは、それらとは異なる古い信仰が背景にあるのでしょうか。

第三に、北条時行を守った諏訪氏は、この祭祀をどのように受け止めていたのでしょうか。

諏訪社の宗教的な権威は、北条氏との主従関係や軍事行動に、どのような影響を与えていたのでしょうか。

この三つの謎は、互いに関係しながらも、同じ問題ではありません。

御柱祭の起源を調べること。

諏訪氏の宗教的な立場を知ること。

そして、北条時行を守った人々の判断を考えること。

それぞれ異なる史料や研究から検討する必要があります。

しかし、それらを重ね合わせることで、諏訪という土地の歴史が少しずつ見えてきます。

巨木が語る、終わらない歴史

巨大なモミの木が、人々の手によって山から運び出されます。

木遣りの声が響き、多くの人が力を合わせます。

そして御柱は、諏訪大社の境内に建てられます。

その姿は、現在の諏訪を象徴するものになっています。

しかし、その祭りの背後には、千年以上にわたる信仰と人々の歴史があります。

鎌倉幕府が成立する以前から続くと伝えられる祭祀。

北条氏を支えた諏訪一族。

北条時行を守った人々。

そして、その後も祭りを受け継いできた地域社会。

一つの政権が滅亡しても、人々の信仰や文化が同時に失われるとは限りません。

政治的な立場が変わり、時代の仕組みが変化しても、受け継がれるものがあります。

御柱祭もまた、同じ形を固定するのではなく、時代の変化を経ながら続いてきました。

北条時行は、鎌倉幕府を再興することはできませんでした。

諏訪頼重も、中先代の乱で命を落としました。

しかし、彼らが生きた土地には、今も諏訪の信仰が息づいています。

御柱祭の巨木は、何かを言葉で語るわけではありません。

けれども、その祭りの歴史をたどると、遠い昔の人々が何を大切にし、どのように次の世代へつないできたのかを考えることができます。

人々が守り続けてきたものは、必ずしも同じ姿のまま残るわけではない。

形を変えながら、次の時代へ受け継がれていくこともあるのです。

そして、その変化の中にこそ、長い歴史を持つ諏訪大社と御柱祭の不思議な魅力があるのかもしれません。

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