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北条時行とその一族【第8回】

2015.08.31

父の敵・後醍醐天皇と手を結んだ理由

滅亡した幕府の遺児は、なぜ父を死に追いやった天皇に赦しを求めたのか

1337年。

鎌倉幕府が滅亡してから四年。

中先代の乱で北条時行が鎌倉を奪還し、再び敗れてから二年。

歴史の記録から姿が見えにくくなっていた北条時行が、思いがけない政治的な選択をします。

後醍醐天皇への帰順です。

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒した人物でした。

時行の父・北条高時は、その倒幕戦争の中で命を落としています。

さらに時行自身も、1335年には建武政権に反抗し、中先代の乱を起こしました。

その少年が、今度は後醍醐天皇の側に加わろうとしたのです。

なぜでしょうか。

父の敵を許したのでしょうか。

北条氏再興への願いを捨てたのでしょうか。

それとも、父を滅ぼした相手と手を結ばなければ、別の敵を倒せない状況になっていたのでしょうか。

この不可解な選択を考えるうえで、重要な手がかりとなるのが『太平記』です。

そこには、時行が後醍醐天皇に赦免を願い出た経緯が描かれています。

しかし、その内容を詳しく読むと、単なる降伏や服従では説明できない問題が浮かび上がります。

四年前、後醍醐天皇は敵だった

1333年、後醍醐天皇による倒幕運動が成功しました。

足利高氏が六波羅探題を攻撃し、新田義貞が鎌倉へ進軍します。

鎌倉幕府は滅亡しました。

北条高時は東勝寺で自害し、多くの北条一族や幕府に仕えた武士たちが命を落としました。

時行は諏訪氏の助けによって鎌倉から逃れたと伝えられています。

それまで政治の中心にいた一族が、一転して追われる立場になったのです。

このとき、後醍醐天皇は北条氏にとって明確な敵対勢力の中心でした。

ところが、時行が再び戦うことになる相手は、やがて足利尊氏へと変わっていきます。

ここに、南北朝時代の複雑さがあります。

1333年、足利尊氏は後醍醐天皇と同じ側で戦っていました。

しかし1335年、尊氏は後醍醐天皇との対立を深めます。

そして1336年には京都を掌握し、後醍醐天皇は吉野へ移りました。

かつて協力して鎌倉幕府を倒した二人が、今度は互いに敵対することになったのです。

時行にとって、足利尊氏とは何者だったのか

足利尊氏は、1333年には北条氏を滅ぼす側にいました。

そして1335年、北条時行が中先代の乱を起こしたとき、再び時行の前に立ちはだかります。

時行軍は信濃から関東へ進み、鎌倉を奪還しました。

しかし、尊氏が京都から東下すると、時行軍は敗北します。

諏訪頼重とその子・時継らは鎌倉で自害しました。

時行は再び逃亡しました。

つまり尊氏は、北条時行にとって二度にわたり一族の政治的な再起を阻んだ人物でした。

ここで重要なのは、後醍醐天皇と足利尊氏の役割の違いです。

後醍醐天皇は鎌倉幕府の打倒を目指した政治的な中心人物でした。

一方、尊氏は幕府の滅亡に関わっただけでなく、中先代の乱において時行自身を直接敗北させた軍事的な相手でもありました。

時行が尊氏を強く敵視するようになった背景には、この違いが関係していた可能性があります。

ただし、実際にどちらをどの程度恨んでいたのか、その心情を確定することはできません。

残された行動と、軍記物に描かれた言葉を区別して考える必要があります。

『太平記』に残された驚くべき申し出

『太平記』巻第十九には、北条時行が後醍醐天皇に赦免を願い出たという話が記されています。

時行は、密かに吉野へ使者を送り、自らの立場を説明したと描かれています。

その内容は、非常に興味深いものです。

まず、父・北条高時が後醍醐天皇に敵対したことを認めます。

そして、父が滅亡したことについても、朝廷の立場からその責任を認めるような説明をしています。

しかし、その一方で、足利尊氏と直義の兄弟を強く非難しています。

尊氏は後醍醐天皇から恩恵を受けながら、その政権に背いた。

その行動こそ討つべきものである。

そのような論理によって、時行は自らの赦免と足利兄弟の追討を願い出たとされています。

この文章を読むと、不思議な印象を受けます。

父を滅ぼした相手に対して、父の行動を否定するような言葉を述べているからです。

しかし、ここで注意が必要です。

『太平記』に記された申し出の文章を、時行本人が実際に提出した文書の全文とみなすことはできません。

軍記物の中で構成された政治的な言葉として読む必要があります。

それでも、この物語が当時の政治的な関係をどのように説明していたのかを考えるうえで、重要な手がかりになります。

父を否定してまで生き残ろうとしたのか

時行の申し出について、表面的な言葉だけを見ると、父・高時を否定したようにも感じられます。

しかし、それだけで時行が父への思いを捨てたと判断することはできません。

当時、後醍醐天皇に赦免を求めるには、自らが朝廷に敵対した過去を説明する必要がありました。

中先代の乱は、建武政権に対する反乱でした。

その中心人物である時行が、何の説明もなく南朝に加わることは難しかったでしょう。

そこで『太平記』では、過去の北条氏の行動と、現在の足利氏の行動を分けて論じています。

父の時代の政治的な責任を認める一方で、尊氏こそが現在の朝廷に対する敵であると主張する。

これは、時行が後醍醐天皇側へ加わるための政治的な論理として理解できます。

しかし、その論理が時行本人の心情と完全に一致していたかどうかは、別の問題です。

政治的な交渉の言葉と、本人の内面は必ずしも同じではありません。

時行が実際に何を思っていたのか。

そこには、今も大きな謎が残っています。

後醍醐天皇は、なぜ時行を許したのか

ここで、視点を後醍醐天皇へ移してみます。

後醍醐天皇にとって、北条時行はどのような存在だったのでしょうか。

時行は鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の息子です。

しかも、1335年には建武政権に反抗して鎌倉を奪還しています。

本来ならば、政治的な敵として扱われても不思議ではありません。

それにもかかわらず、後醍醐天皇は時行の帰順を受け入れました。

『太平記』では、父に罪があったとしても、その子まで同じように扱うべきではないという考え方が示されています。

さらに、人材を用いる際には、現在の行動や立場を見極めるべきだという論理も語られています。

この描写は、後醍醐天皇が時行を受け入れた理由を、政治的な正当性の面から説明するものです。

しかし、実際の判断には、別の事情も関係していたと考えられます。

それが、南朝の置かれた軍事的な状況です。

南朝には、協力する武士が必要だった

1336年、足利尊氏は京都を掌握しました。

後醍醐天皇は吉野へ移り、南朝を拠点として対抗を続けます。

しかし、南朝の軍事的な状況は厳しいものでした。

楠木正成は湊川の戦いで戦死しています。

新田義貞は北陸方面で戦い続けていました。

北畠顕家は奥州で足利方の圧力に直面していました。

南朝にとって、全国各地で足利方に対抗できる武士たちの協力は重要でした。

ここで北条時行の存在が意味を持ちます。

時行は、1335年に一度鎌倉を奪還した実績を持っていました。

さらに、北条得宗家の生き残りという立場から、旧幕府の関係者に影響を与える可能性もありました。

時行本人がどの程度の兵力を動員できたのかは分かりません。

しかし、足利氏と敵対する勢力を増やすことは、南朝にとって軍事的な意味があったと考えられます。

かつての敵であっても、現在の共通の敵に対抗するためには協力する。

そうした判断が行われた可能性があります。

ただし、後醍醐天皇が時行の軍事力をどの程度評価していたのかについては、直接的な史料による確認が必要です。

北条氏の旧臣たちは、どう受け止めたのか

時行が南朝へ加わることについて、北条氏の旧臣たちはどう考えたのでしょうか。

これは非常に興味深い問題です。

1333年、彼らの一族や主君は、後醍醐天皇を中心とする倒幕勢力によって大きな打撃を受けました。

1335年には、時行を奉じて建武政権に反抗した武士たちがいました。

その時行が、今度は後醍醐天皇の側に加わろうとしているのです。

納得できないと考える者がいても不思議ではありません。

一方、足利氏と戦うためならば、南朝への協力を受け入れるという判断も考えられます。

しかし、実際にどの武士が賛成し、どの武士が反対したのかを詳しく示す記録は限られています。

北条氏の旧臣が全員、時行の判断に従ったと考えることもできません。

一族や家臣の関係は、政権の滅亡や戦乱によって変化していました。

時行が新しい協力関係を築くには、そうした人々の立場にも向き合う必要があったと考えられます。

北条時行と北畠顕家、二人の奇妙な関係

1337年、北畠顕家は奥州から第二次西上を開始しました。

義良親王を奉じ、足利尊氏の勢力に対抗するための遠征です。

この軍事行動に、北条時行も加わりました。

ここに、南北朝時代の複雑さが最もよく表れています。

北畠顕家は、後醍醐天皇の側近である北畠親房の息子です。

少年時代から朝廷で高い官職に就き、建武政権の成立後には奥州の統治を任されました。

一方、北条時行は鎌倉幕府最後の得宗・高時の息子です。

その幕府は、顕家が仕える後醍醐天皇によって倒されました。

本来、二人は異なる政治的な歴史を背負っていました。

しかし、1337年には同じ足利尊氏と戦う立場になります。

その関係を、単純な友情や忠誠として描くことはできません。

二人がどのような会話を交わし、互いをどう評価していたのかを示す確かな記録はありません。

それでも、同じ軍事行動に参加したという事実には大きな意味があります。

異なる過去を持つ人々が、共通の目的のために協力していたのです。

伊豆で動き始めた時行

『太平記』では、南朝に赦免された時行が、北畠顕家の西上に呼応して伊豆方面で活動したと描かれています。

顕家は奥州から関東へ向かっていました。

一方、時行は東国で足利氏に対抗しようとしていました。

ここで重要なのは、両者が最初から一つの軍勢として奥州を出発したわけではないということです。

顕家は奥州の武士たちを率いて西上しました。

時行は、別の地域で足利氏と対抗する勢力として活動していました。

その後、両者の軍事行動が結びついていきます。

ただし、具体的な合流の日時や場所、時行が率いた兵力については、史料の記述を慎重に扱う必要があります。

『太平記』には大軍を率いたという表現がありますが、その兵数をそのまま実数として扱うことはできません。

重要なのは、時行が再び東国で軍事行動を起こし、顕家と同じ側で戦ったということです。

1337年12月、再び鎌倉へ

1337年12月、北畠顕家の軍勢は鎌倉を攻略しました。

足利方の有力武将・斯波家長は、この戦いで命を落としたと伝えられています。

そして北条時行も、鎌倉へ入ったとされています。

1335年に中先代の乱で鎌倉を奪還してから、約二年。

時行は再び鎌倉へ戻ってきたのです。

ただし、今回は1335年とは大きく事情が異なっていました。

前回は、北条氏の再興を掲げた反乱でした。

今回は、南朝側の軍事行動の一環として鎌倉を攻略しています。

同じ鎌倉に戻ったとしても、その政治的な意味は違っていました。

時行は、この変化をどのように受け止めていたのでしょうか。

父の幕府があった鎌倉。

幼い頃に追われた鎌倉。

一度は奪還し、再び失った鎌倉。

その場所へ、今度は南朝方の武将として戻ってきたのです。

しかし、時行本人の感情を記した確かな文章は残されていません。

その内面を想像で埋めるのではなく、繰り返し鎌倉へ向かった行動そのものに注目する必要があります。

時行は北条氏の再興を諦めたのか

南朝に加わった時行は、北条氏の再興を諦めていたのでしょうか。

これについても、明確な答えはありません。

時行が南朝に加わったことは、足利氏に対抗するための政治的な選択として理解できます。

しかし、南朝に従ったからといって、北条得宗家の立場を忘れたとは限りません。

また、時行が1335年と同じ形で鎌倉幕府を復活させようとしていたかどうかも分かりません。

時行を取り巻く状況は、急速に変化していました。

1333年には鎌倉幕府が滅亡しました。

1335年には北条氏再興を掲げて挙兵しました。

1336年には後醍醐天皇と足利尊氏が敵対するようになりました。

そして1337年、時行は南朝側として活動します。

その時々で、実現できることと、実現できないことが変わっていました。

時行が政治的な協力関係を変えたことは、必ずしも自らの目的をすべて捨てたことを意味しません。

むしろ、足利氏への対抗を続けるために、新たな道を選んだ可能性があります。

敵と味方は、なぜ入れ替わるのか

北条時行の生涯を追うと、敵と味方が何度も入れ替わります。

1333年、後醍醐天皇と足利尊氏は、ともに北条氏を倒す側に立っていました。

1335年、時行は建武政権に反抗し、尊氏に敗れました。

1336年、尊氏と後醍醐天皇が敵対します。

1337年、時行は後醍醐天皇の側に加わります。

この変化を、単なる裏切りの連続として考えることはできません。

それぞれの人物には、守ろうとする政治的な立場がありました。

土地を守ろうとする武士たちがいました。

一族の存続を考える人々がいました。

そして、政権の正統性をめぐる問題も存在していました。

政治的な状況が変われば、以前の敵が協力者となることもあります。

逆に、以前の協力者が敵になることもあります。

南北朝時代の戦乱は、そうした変化が繰り返された時代でもありました。

父の敵を許したのか、それとも利用したのか

ここで、最初の問いに戻ります。

北条時行は、なぜ後醍醐天皇と手を結んだのでしょうか。

『太平記』には、時行が後醍醐天皇に赦免を願い出た経緯が描かれています。

そこでは、父の時代の行動と、足利尊氏の現在の行動を区別する論理が示されています。

また、後醍醐天皇も時行を受け入れたとされています。

しかし、両者が互いにどの程度信頼していたのかは分かりません。

時行が後醍醐天皇を心から許したのか。

後醍醐天皇が時行をどのように評価していたのか。

そこまで確定できる史料はありません。

一方、両者には足利尊氏に対抗するという共通の目的がありました。

その一致が、政治的な協力関係を成立させる重要な条件だったことは考えられます。

ただし、同じ敵を持つことと、同じ未来を目指すことは別の問題です。

時行と後醍醐天皇が、戦いの後にどのような政治体制を望んでいたのか。

この点には、なお不明な部分が残されています。

もう一つの疑問、新田義貞との関係

北条時行が南朝に加わったことを考えると、もう一人、重要な人物が浮かび上がります。

新田義貞です。

1333年、新田義貞は鎌倉を攻撃し、北条氏を滅ぼす戦いで中心的な役割を果たしました。

つまり、義貞もまた、時行にとって父の幕府を滅ぼした側の人物です。

しかし、時行が南朝に加わったことで、二人は同じ政治的な立場に属することになります。

当時の義貞は北陸方面で足利方と戦っていました。

顕家と時行は関東から西へ進み、義貞は北陸で戦っていました。

ここで疑問が生まれます。

新田義貞は、北条時行の南朝帰順をどのように受け止めたのでしょうか。

二人の間に、何らかの政治的な接触はあったのでしょうか。

また、顕家軍と義貞軍の連携を考える際、時行の存在が影響することはなかったのでしょうか。

これらの問題を直接示す史料は限られています。

そのため、過去の敵対関係だけを理由に、両者が反目していたと決めつけることはできません。

しかし、北条時行の南朝帰順が、南朝側の武将たちにどのように受け止められたのかは、興味深い研究課題です。

生き残った少年が選んだ新しい道

1333年、北条時行は鎌倉幕府の滅亡から生き延びました。

1335年、諏訪頼重らに奉じられて鎌倉を奪還しました。

しかし、足利尊氏に敗れ、再び逃亡します。

そして1337年、後醍醐天皇の側に加わりました。

この選択は、単に敵と味方を入れ替えたという話ではありません。

北条得宗家の生き残りが、変化する政治情勢の中で再び戦う立場を得た出来事でした。

時行にとって、南朝への帰順がどのような意味を持っていたのか。

一族の存続だったのでしょうか。

足利氏への対抗だったのでしょうか。

それとも、鎌倉を再び取り戻すための新たな機会だったのでしょうか。

その答えは、一つではなかった可能性があります。

そして、この政治的な選択によって、時行は北畠顕家とともに戦うことになりました。

北畠顕家との戦いへ

北畠顕家は、京都の公家として生まれ、16歳で奥州の統治を任された人物です。

北条時行は、鎌倉幕府最後の得宗家に生まれ、幼くして本拠地を追われた人物でした。

二人は異なる環境で育ち、異なる政治的な歴史を背負っていました。

しかし、1337年には同じ足利尊氏と戦う立場になります。

そして、1338年には美濃国青野原での戦いにも関わることになります。

ここで重要なのは、二人が単に同じ敵を持っていたということだけではありません。

顕家には、奥州から率いてきた武士たちがいました。

時行にも、北条氏との関係を持つ人々がいました。

それぞれの軍勢の背景には、異なる土地や一族の歴史がありました。

その人々が、同じ戦場で戦うことになるのです。

しかし、二人がどのように軍勢をまとめ、互いの役割を調整したのかについては、詳しい記録が十分に残っていません。

顕家と時行の協力関係は、どこまで強固なものだったのでしょうか。

それぞれが何を実現しようとしていたのでしょうか。

そして、顕家が1338年に戦死した後、時行はなぜ再び生き延びることができたのでしょうか。

次回は「北畠顕家と北条時行、奇妙な運命共同体」。

京都の公家として生まれた青年と、鎌倉幕府最後の得宗家の少年。

本来は敵対する歴史を持つ二人が、なぜ同じ軍勢で戦うことになったのでしょうか。

1337年の鎌倉攻略から、1338年の青野原の戦いまで。

二人の行動を同じ時間軸で追いながら、その協力関係の実像と、なお残る謎を探っていきます。

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