新田義宗はどこへ消えたのか。二つの墓、異なる最期の伝承と、新田一族に残された謎【5】
義宗が出家したという話は、何を伝えているのか
義宗が薬王寺で出家したという伝承には、もう一つ考えたい問題があります。
もし義宗が本当に戦いから離れ、僧として生涯を終えたのであれば、それはどのような決断だったのでしょうか。
父は越前で戦死しました。
兄たちも、それぞれ戦いの中で命を落としました。
自分自身も関東や越後で戦い、何度も敗北を経験しています。
その義宗が、最後に武器を置いて別の人生を選んだ可能性があるとしたら。
それは、単に戦いを諦めたという一言だけで説明できるでしょうか。
もちろん、実際に義宗が出家したと確定できるわけではありません。
しかし、ここで一つ考えられることがあります。
戦い続けることだけが、一族の歴史を残す方法とは限りません。
生き残り、人々の記憶を守り、次の世代へ何かを伝える道もあります。
ただし、これは義宗が実際にそう考えたという意味ではありません。
あくまで、薬王寺に伝わる物語から考えられる人間の選択の一つです。
義宗の真意を確かめる言葉は、残されていないのです。
義宗の墓が二つあることは、何を意味しているのか
ここまで調べると、義宗については二つの異なる歴史が存在しているように見えます。
一つは、1368年ごろに再び挙兵し、沼田で矢を受けて戦死したという歴史。
もう一つは、戦いに敗れた後も生き延び、所沢で出家して生涯を終えたという歴史です。
どちらにも、義宗の存在を伝えようとした人々がいました。
しかし、二つの伝承をそのまま一つにつなげることはできません。
義宗が沼田で戦死したのであれば、その後に所沢で出家して生活することはできません。
一方、所沢で生涯を終えたのであれば、沼田の戦死伝承には別の説明が必要になります。
では、どちらかが完全な創作なのでしょうか。
そのように結論づけることも、まだ早いでしょう。
一つの地域で起こった別の戦いが、後に義宗の物語と結びついた可能性もあります。
ある人物の墓所が、長い年月の中で義宗の墓として伝えられるようになった可能性もあります。
反対に、義宗に関わる実際の出来事の一部が、それぞれの土地で異なる形に変化して伝えられた可能性も考えられます。
ただし、どれも現段階では可能性です。
重要なのは、伝承が複数あるからといって、そのうち一つを都合よく選ばないことです。
それぞれの伝承が、いつ、どのような資料に現れたのか。
実際の史跡には何が残されているのか。
その一つひとつを確認する必要があります。
「新田義宗は戦死した」という記録にも残る疑問
義宗の最期をめぐる問題で、さらに重要なのは、1368年の挙兵そのものです。
この戦いについては、江戸時代に編纂された『喜連川判鑑』などに記述が残っています。
しかし、当時の武士たちが残した軍忠状などからは、その戦いの経過を十分に確認できていません。
また、1368年の関東では、ほかにも政治的な対立や軍事的な混乱が起こっていました。
上杉氏を中心とする関東の支配体制にも変化がありました。
そのため、後世の記録に書かれた義宗の挙兵が、実際にどのような規模の出来事だったのかについては、研究上の検討が必要です。
大軍を率いた本格的な戦いだったのか。
一族や少数の協力者による軍事行動だったのか。
あるいは、挙兵が計画されたものの、大きな戦闘になる前に終わったのか。
現存する史料だけでは、確かな答えを出すことが難しい部分があります。
つまり、義宗の最期には、二重の謎が残っているのです。
どこで死んだのかが分からない。
そして、最後の戦いがどのようなものだったのかも、十分には分かっていない。
一つの人物の最期をめぐって、これほど異なる記録が残されていること自体が、南北朝時代の歴史を考える上で興味深い問題です。