新田義宗はどこへ消えたのか。二つの墓、異なる最期の伝承と、新田一族に残された謎【4】
墓はある。しかし、それだけで本人の墓と分かるのか
うつぶしの森の近くには、雲谷寺という寺院があります。
その裏山には、南北朝時代のものとされる五輪塔が三基並んでいます。
中央の五輪塔は、新田義宗の墓と伝えられています。
ところが、この五輪塔には名前を示す銘文がありません。
つまり、石塔そのものから、そこに葬られた人物を直接確認することはできないのです。
一方、隣に立つ五輪塔には、応安三年、1370年の年号を含む銘文があります。
義宗の家臣・船田長門守経政の墓と推定されています。
もう一基にも文和三年、1354年の銘がありますが、葬られた人物は不明です。
ここに、興味深い問題があります。
三基の五輪塔は、南北朝時代の異なる年月と関わっています。
中央の石塔が無銘である以上、義宗の墓と確定できるわけではありません。
では、なぜ中央の五輪塔が義宗の墓と伝えられるようになったのでしょうか。
周囲の石塔との関係からでしょうか。
寺院に伝わる古い記録があったのでしょうか。
地域の人々が義宗の最期を語り継ぐ中で、その墓所として認識されるようになったのでしょうか。
現在残る石塔は、確かに古い時代の遺物です。
しかし、そのことと、そこに義宗本人が葬られていることは、別々に確かめなければならない問題なのです。
ところが、所沢にも義宗の終焉の地がある
ここで、もう一つの場所へ目を向けます。
埼玉県所沢市有楽町。
現在の所沢市街地にある薬王寺です。
この寺には、新田義宗がここで生涯を終えたという伝承があります。
しかも、沼田の伝承とは、最期の様子が大きく異なっています。
義宗は、足利方との戦いに敗れた後、再起の機会を求めながらこの地に身を隠したとされています。
しかし、再び大きな軍勢を集めることはできませんでした。
やがて出家し、草庵を結び、そこで生涯を終えたというのです。
この伝承では、義宗は戦場で討ち取られていません。
最後まで生き延び、別の形で人生を終えたことになります。
薬王寺には「新田義宗終焉之地」の石碑もあります。
ただし、その石碑は南北朝時代のものではありません。
明治時代に、義宗の子孫とされる人々によって建てられたものです。
ここで、私たちは再び歴史の難しさに直面します。
沼田には義宗の戦死を伝える森と墓があります。
所沢には義宗が生き延びたと伝える寺と石碑があります。
一人の人物が、二つの場所で生涯を終えることはできません。
では、どちらの伝承が歴史上の事実に近いのでしょうか。
江戸時代の地誌は、すでに義宗の最期を疑っていた
所沢の薬王寺に関しては、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも記述が残されています。
そこには、義宗が足利方との戦いに敗れ、この地に隠れて出家し、生涯を終えたという伝承が紹介されています。
しかし、注目したいのは、その記録が伝承をそのまま事実として認めていないことです。
『新編武蔵風土記稿』の編纂者は、義宗の終焉地について他の地域にも異なる伝承があることを指摘し、薬王寺の話を裏付ける証拠が十分ではないとしています。
つまり、江戸時代の人々も、すでに義宗の最期をめぐる記録の食い違いに気づいていたのです。
これは興味深いことです。
現代になって初めて疑問が生まれたわけではありません。
約二百年前に地域の歴史を調べていた人々も、古い伝承を読み、別の記録と比べ、どこまで信じられるのかを考えていました。
当時の人々も、すべての伝承を無条件に受け入れていたわけではないのです。
墓はある。しかし、それだけで本人の墓と分かるのか
うつぶしの森の近くには、雲谷寺という寺院があります。
その裏山には、南北朝時代のものとされる五輪塔が三基並んでいます。
中央の五輪塔は、新田義宗の墓と伝えられています。
ところが、この五輪塔には名前を示す銘文がありません。
つまり、石塔そのものから、そこに葬られた人物を直接確認することはできないのです。
一方、隣に立つ五輪塔には、応安三年、1370年の年号を含む銘文があります。
義宗の家臣・船田長門守経政の墓と推定されています。
もう一基にも文和三年、1354年の銘がありますが、葬られた人物は不明です。
ここに、興味深い問題があります。
三基の五輪塔は、南北朝時代の異なる年月と関わっています。
中央の石塔が無銘である以上、義宗の墓と確定できるわけではありません。
では、なぜ中央の五輪塔が義宗の墓と伝えられるようになったのでしょうか。
周囲の石塔との関係からでしょうか。
寺院に伝わる古い記録があったのでしょうか。
地域の人々が義宗の最期を語り継ぐ中で、その墓所として認識されるようになったのでしょうか。
現在残る石塔は、確かに古い時代の遺物です。
しかし、そのことと、そこに義宗本人が葬られていることは、別々に確かめなければならない問題なのです。
ところが、所沢にも義宗の終焉の地がある
ここで、もう一つの場所へ目を向けます。
埼玉県所沢市有楽町。
現在の所沢市街地にある薬王寺です。
この寺には、新田義宗がここで生涯を終えたという伝承があります。
しかも、沼田の伝承とは、最期の様子が大きく異なっています。
義宗は、足利方との戦いに敗れた後、再起の機会を求めながらこの地に身を隠したとされています。
しかし、再び大きな軍勢を集めることはできませんでした。
やがて出家し、草庵を結び、そこで生涯を終えたというのです。
この伝承では、義宗は戦場で討ち取られていません。
最後まで生き延び、別の形で人生を終えたことになります。
薬王寺には「新田義宗終焉之地」の石碑もあります。
ただし、その石碑は南北朝時代のものではありません。
明治時代に、義宗の子孫とされる人々によって建てられたものです。
ここで、私たちは再び歴史の難しさに直面します。
沼田には義宗の戦死を伝える森と墓があります。
所沢には義宗が生き延びたと伝える寺と石碑があります。
一人の人物が、二つの場所で生涯を終えることはできません。
では、どちらの伝承が歴史上の事実に近いのでしょうか。
江戸時代の地誌は、すでに義宗の最期を疑っていた
所沢の薬王寺に関しては、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも記述が残されています。
そこには、義宗が足利方との戦いに敗れ、この地に隠れて出家し、生涯を終えたという伝承が紹介されています。
しかし、注目したいのは、その記録が伝承をそのまま事実として認めていないことです。
『新編武蔵風土記稿』の編纂者は、義宗の終焉地について他の地域にも異なる伝承があることを指摘し、薬王寺の話を裏付ける証拠が十分ではないとしています。
つまり、江戸時代の人々も、すでに義宗の最期をめぐる記録の食い違いに気づいていたのです。
これは興味深いことです。
現代になって初めて疑問が生まれたわけではありません。
約二百年前に地域の歴史を調べていた人々も、古い伝承を読み、別の記録と比べ、どこまで信じられるのかを考えていました。
当時の人々も、すべての伝承を無条件に受け入れていたわけではないのです。