新田義貞と湊川の戦い。楠木正成はなぜ命を落とし、足利尊氏は再び立ち上がれたのか【1】
1336年5月25日。
現在の兵庫県神戸市にあたる摂津国湊川で、日本の歴史を大きく変える戦いが起こりました。
新田義貞と楠木正成。
鎌倉幕府の滅亡に大きな役割を果たし、後醍醐天皇の新しい政治を支えてきた二人の武将が、足利尊氏の大軍を迎え撃ちます。
しかし、この戦いで楠木正成は命を落とし、新田義貞は京都方面へ撤退しました。
勝利した足利尊氏は、やがて新しい武家政権を築くことになります。
後の歴史を知る私たちは、この戦いを室町幕府成立への大きな転機として見ることができます。
けれども、戦場にいた人々に、その後の歴史が見えていたわけではありません。
なぜ、新田義貞は敗れたのか。
なぜ、楠木正成は戦場に向かったのか。
そして、京都を追われ、一度は九州まで退いた足利尊氏が、なぜ再び大軍を率いて戻ることができたのでしょうか。
その背景には、武将個人の力量だけでは説明できない、人と人とのつながり、土地を守る武士たちの判断、そして新しい政治のあり方をめぐる大きな問題がありました。
京都を奪った足利尊氏と、立ちはだかった武将たち
1335年12月、箱根・竹之下の戦いで新田義貞の軍勢を破った足利尊氏は、勢いに乗って西へ進みました。
翌1336年1月、尊氏は京都に入り、建武政権を大きく揺るがします。
しかし、京都を占領することと、その地を安定して支配することは別の問題でした。
後醍醐天皇を支持する軍勢は、まだ各地に残っていました。
その中でも大きな役割を果たしたのが、陸奥から軍勢を率いて上洛した北畠顕家です。
顕家は北畠親房の子で、若くして東北地方の統治と軍事に関わる重要な役割を任されていました。
東北から京都までは長い道のりです。
軍勢を移動させるだけでも、兵糧や馬の確保、街道の通行、各地の武士との協力が必要になります。
北畠顕家が率いた軍勢の進軍は、建武政権がなお広い地域に支持基盤を持っていたことを示す出来事でもありました。
新田義貞、楠木正成、北畠顕家らの反撃を受けた足利軍は京都を維持できず、西へ退きます。
尊氏はさらに九州へ向かいました。
鎌倉幕府を倒した有力武将が、新しい政権に敵対し、京都へ攻め込み、そして敗れて九州へ退く。
わずかな期間に、情勢は目まぐるしく変化していました。
ここで戦いが終わっていても、不思議ではありません。
ところが、尊氏は九州で再び勢力を回復させることになります。
敗北しても失われなかった足利氏の力
尊氏が九州へ向かったとき、すべての武士が彼を見限ったわけではありませんでした。
足利氏は鎌倉時代から長く続く有力な武家です。
一族の分家が各地に広がり、婚姻や主従関係を通じた結びつきもありました。
尊氏が敗れたからといって、そうした関係が一度に消えるわけではありません。
また、建武政権に不満を持つ武士たちもいました。
土地の権利をめぐる争いや恩賞への不満は、新しい政治に対する期待を揺るがしていました。
尊氏が再び武士たちの支持を集められた背景には、こうした事情もあります。
ただし、尊氏を支持した人々が、全員同じ理由で行動したわけではありません。
足利氏との長年の関係を大切にした者。
新しい武家の秩序を期待した者。
自分たちの領地を守るため、尊氏に従う道を選んだ者。
それぞれに事情がありました。
尊氏の強さは、戦場で敵を破る力だけではなく、多くの武士を自分たちの側へ結びつけることができた点にもあったと考えられます。
しかし、それも尊氏一人の力ではありません。
弟の足利直義、一族の武将、各地の有力者たちが、それぞれの役割を果たしていました。
足利氏の軍事力は、一人の英雄がすべてを動かしていたのではなく、多くの人々の関係によって支えられていたのです。