新田義貞と足利尊氏。鎌倉幕府を倒した二人は、なぜ敵同士になったのか【1】
1333年5月、約150年にわたって続いた鎌倉幕府が滅亡しました。
鎌倉へ攻め込んだ新田義貞。京都の六波羅探題を攻略した足利高氏(のちの尊氏)。
二人は、それぞれ異なる場所で鎌倉幕府の支配を終わらせる大きな役割を果たしました。
しかし、そのわずか2年後。
二人は今度は敵として、互いに軍勢を率いて戦うことになります。
長い年月をかけて成立した武家政権を倒し、新しい時代を迎えたはずなのに、なぜ再び武士たちは戦わなければならなかったのでしょうか。
新田義貞が守ろうとしたものは何だったのか。
足利尊氏は何を実現しようとしていたのか。
二人の歩みをたどると、歴史は単純な正義と悪、忠臣と逆賊だけでは語れないことが見えてきます。
同じ源氏の血を引く、新田氏と足利氏
新田義貞と足利尊氏は、まったく無関係な家に生まれた武将ではありません。
両氏はともに清和源氏の流れをくみ、源義家の子である源義国の系統につながる一族です。
新田氏は義国の子・義重の系統、足利氏はその弟・義康の系統として知られています。
両家の本拠地は、現在の群馬県太田市周辺と栃木県足利市周辺。
地理的にも近く、共通の祖先を持ちながら、中世の武士社会でそれぞれの道を歩んできました。
しかし、鎌倉時代を通じて両家の立場は大きく異なっていきます。
足利氏は北条氏との婚姻関係を重ね、幕府内部で有力な地位を築きました。
一方、新田氏も源氏の名門でありながら、足利氏ほど幕府の中枢に近い立場ではありませんでした。
同じ祖先を持つからといって、同じ待遇を受けるわけではない。
家の歴史、婚姻、人間関係、領地、そして過去の選択。
そうしたものが積み重なり、それぞれの一族が置かれる環境を変えていきました。
ただし、この家格の違いだけで、義貞と尊氏が必ず敵対する運命にあったとは言えません。
むしろ、鎌倉幕府が滅亡する過程では、両氏が協力する場面があったのです。
鎌倉幕府を倒すために、二人の力が動いた
1333年。
足利高氏は、当初、幕府側の武将として西国へ出陣しました。
しかし、その途中で幕府から離反し、後醍醐天皇側に加わります。
高氏が攻撃したのは、京都に置かれた幕府の重要拠点、六波羅探題でした。
六波羅探題の陥落は、鎌倉幕府の支配を根底から揺るがす出来事となります。
ほぼ同じ時期、関東では新田義貞が挙兵しました。
上野国新田荘を出発した義貞の軍勢は、各地の武士を集めながら鎌倉を目指します。
その軍勢には、足利高氏の子・千寿王、のちの足利義詮につながる勢力も加わりました。
つまり、鎌倉攻略は新田氏だけの戦いでも、足利氏だけの戦いでもありませんでした。
義貞の軍事行動と、足利氏の関東における影響力が重なり、多くの武士たちが動いたのです。
ここで考えたいのは、当時の武士たちが全員、同じ将来像を持っていたとは限らないことです。
北条氏の支配に不満を抱いていた者。
失った領地や立場を取り戻したい者。
後醍醐天皇の呼びかけに応じた者。
新田氏や足利氏との関係から行動した者。
さまざまな事情を抱える人々が、鎌倉幕府を倒すという一つの目的のもとに集まりました。
共通の敵が存在する間は、違う考え方を持つ者同士でも協力できます。
しかし、その敵がいなくなったとき、何が起こるのでしょうか。
幕府を倒した後、どのような国をつくるのか
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は京都で新しい政治を始めます。
建武の新政です。
武家政権による政治から、天皇を中心とする政治へ。
後醍醐天皇は、それまでの政治の仕組みを大きく変えようとしました。
しかし、幕府を倒すことと、新しい国の仕組みをつくることは、まったく別の難しさを持っています。
戦いに勝てば、敵の軍勢を退けることはできます。
けれども、戦いが終わった後には、武士たちの領地をどうするのか、功績をどう評価するのか、誰が地方を治めるのかという問題が残ります。
鎌倉幕府の時代、武士たちは土地を守り、戦いに参加し、その功績に応じた恩賞を期待してきました。
土地は単なる財産ではありません。
そこには家族が暮らし、家臣が生活し、代々守ってきた一族の歴史がありました。
新しい政権が土地の権利を見直すということは、人々の生活そのものに関わる問題だったのです。
後醍醐天皇の政治には、新しい秩序を築こうとする意欲がありました。
一方で、土地の権利確認や恩賞の処理をめぐって混乱が生じ、期待していた結果を得られない武士たちの不満も広がっていきます。
ここで足利尊氏の存在が大きくなっていきました。
尊氏は有力な武家の当主であり、多くの武士たちとの関係を持っていました。
新政権の中でも軍事や地方支配に関わる重要な立場を与えられ、その影響力は無視できないものになっていました。
一方の新田義貞も、建武政権から官職や所領に関わる地位を与えられ、政権を支える重要な武将となります。
この段階で、義貞が最初から天皇への忠義だけを考え、尊氏が最初から幕府を開くことだけを考えていたと決めつけるのは早計でしょう。
二人がそれぞれ、どの時点で何を考えていたのか。
本人の心の中を、そのまま伝える記録は残っていません。
ただ、政治の混乱が進むにつれて、二人の立場が違う方向へ動き始めたことは確かです。