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新田義貞 鎌倉幕府を倒した武将は、なぜ故郷の上野国で立ち上がったのか【1】

2015.05.16

生品神社に集まった150騎。新田荘の人々と、歴史を動かした決断

1333年5月8日。

上野国新田荘、現在の群馬県太田市。

一人の武将が、生品神社の前で兵を挙げたと伝えられています。

その名は、新田義貞。

後に鎌倉幕府を滅亡へ導くことになる人物です。

『太平記』によれば、このとき義貞のもとに集まった軍勢は、わずか150騎ほどでした。

鎌倉幕府は、およそ150年にわたり東国を中心に武士たちを統率してきた大きな政治勢力です。

その幕府に対して、150騎から戦いを始める。

兵力だけを比べれば、あまりにも大きな違いがあります。

しかし、義貞の軍勢は進軍するにつれて増えていきます。

新田一族に関係する武士たちが集まり、周辺の勢力も加わり、やがて鎌倉へと迫っていくのです。

なぜ、そのようなことができたのでしょうか。

義貞には、最初から幕府を倒せるという確信があったのでしょうか。

それとも、幕府の支配が揺らいでいることを感じ取り、今こそ行動する時だと判断したのでしょうか。

そして何より、義貞とともに兵を挙げた人々は、何を考えていたのでしょう。

鎌倉幕府を倒すという大きな目的に共感したのでしょうか。

自分たちの土地や生活を守るためだったのでしょうか。

それとも、新田義貞という人物を信頼していたのでしょうか。

この問いを考えるためには、まず義貞が生まれ育った上野国新田荘の歴史をたどる必要があります。

新田義貞が生まれた土地

上野国新田郡は、現在の群馬県太田市を中心とする地域です。

北には赤城山があり、南には利根川が流れています。

周辺には河川や水路があり、広い平野が続いています。

現在では住宅地や工場、農地などが広がっていますが、鎌倉時代には、土地を開発し、農業を営みながら暮らす人々がいました。

この地域に、新田氏が長い年月をかけて築いた荘園がありました。

新田荘です。

その成立は、平安時代末期の12世紀中頃にさかのぼります。

新田氏の祖とされる新田義重は、源義国の子であり、清和源氏の流れをくむ人物でした。

義重は、早川や石田川の流域を開発し、周辺の土地を支配下に収めていきました。

土地を開発するということは、単に田畑を増やすことではありません。

水を確保し、土地を整え、人々が生活できる環境をつくる必要があります。

農業を続けるためには、用水を維持し、収穫したものを運び、地域の人々が協力する仕組みも必要です。

そのような積み重ねによって、新田荘という地域社会が形成されていったのでしょう。

現在も太田市には、当時の新田荘に関係する館跡、寺院、神社、湧水地などが残っています。

これらは離れた場所に点在していますが、国の史跡として、一つの荘園の歴史を伝える遺跡群になっています。

ここから分かるのは、新田氏の歴史が、武士の戦いだけによってつくられたものではないということです。

土地を耕す人々。

水を管理する人々。

寺社を支える人々。

物資を運び、地域の生活をつないできた人々。

そうした多くの人々の営みが、新田氏の勢力を支えていたのではないでしょうか。

義貞が歴史の表舞台へ現れるまでには、すでに何世代にもわたる土地と人間関係の積み重ねがあったのです。

源氏の血筋を持ちながら、鎌倉幕府の中で生きていた

新田氏は、源氏の流れをくむ武士の一族でした。

祖先の新田義重は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と同じ源義国・源義家につながる系統に属します。

つまり、義貞は、源頼朝とまったく無関係な武士ではありませんでした。

しかし、源氏の血筋を持っているからといって、幕府の中で特別に大きな力を持っていたわけではありません。

鎌倉幕府が成立すると、東国の武士たちは将軍と御家人の関係を通じて、新しい政治的な秩序の中に組み込まれていきました。

新田氏も、その中で生きていくことになります。

ここで興味深いのは、足利氏との関係です。

新田氏と足利氏は、ともに源義国の系統につながる一族でした。

しかし、鎌倉時代を通じて、両氏が置かれた政治的な立場は同じではありません。

足利氏は幕府の有力御家人として勢力を保ち、各地に所領や人間関係を築いていました。

一方、新田氏の本宗家は、足利氏ほど大きな政治的影響力を持つ存在ではなかったと考えられています。

同じ祖先につながる一族であっても、その後の環境や政治的な関係によって、進む道は違っていったのです。

この二つの一族は、やがて鎌倉幕府の滅亡に関わることになります。

さらに、その後には、新田義貞と足利尊氏が敵対することになるのです。

しかし、1333年の挙兵以前、義貞と高氏が互いをどのように見ていたのかは、詳しく分かっていません。

同じ源氏の血筋を持つ人物として意識していたのでしょうか。

それとも、それぞれの地域と立場の中で、別々の人生を歩んでいたのでしょうか。

その関係は、後の歴史を考える上でも気になるところです。

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