新田義貞 鎌倉幕府を倒した武将は、なぜ故郷の上野国で立ち上がったのか【2】
義貞の若い頃には、分からないことが多い
新田義貞は、1301年に生まれたと伝えられています。
ただし、その生年には史料上の検討が必要です。
父は新田朝氏とされ、弟には脇屋義助がいました。
義貞の幼少期については、詳しい記録が多く残されているわけではありません。
どのような教育を受けたのでしょうか。
誰から武芸を学んだのでしょうか。
若い頃、どのような人々と交流していたのでしょう。
そして、新田氏の当主として、どのように地域の人々と向き合っていたのでしょうか。
現在の太田市にある反町館跡には、義貞が青年期に暮らしたという伝承が残されています。
また、安養寺館の跡とされる場所も、義貞の居館との関係が伝えられています。
ただし、これらの伝承だけで、義貞がどこで何年間生活していたのかを確定することはできません。
それでも、当時の武士が土地や人々との関係の中で生活していたことを考えれば、義貞もまた地域社会と無関係ではなかったはずです。
武士の家には所領があり、その土地を管理する人々がいました。
農作物の収穫や年貢をめぐる問題もあったでしょう。
周辺の一族や寺社との関係を維持することも重要だったはずです。
こうした日常の中で、義貞は何を学んだのでしょうか。
後世には鎌倉幕府を滅ぼした武将として知られますが、義貞は最初からそのような役割を持って生まれたわけではありません。
上野国に暮らし、家族や一族の人々と関わりながら成長した、一人の人間だったのです。
幕府を支えていた人々の不満
14世紀に入ると、鎌倉幕府の政治は次第に難しい状況に置かれるようになります。
元寇の後、御家人たちの所領や経済をめぐる問題が続いていました。
幕府は御家人たちの生活を支え、各地の支配を維持しなければなりませんでした。
しかし、武士の数が増え、所領が分割される中で、経済的に苦しくなる人々も現れていました。
土地をめぐる争いも続きます。
幕府の裁判や政治に不満を持つ人々もいました。
もちろん、すべての御家人が幕府に不満を抱いていたわけではありません。
幕府の支配によって所領を守られ、利益を得ていた人々もいました。
だからこそ、幕府を倒そうとする動きが起きたとき、武士たちの判断は分かれることになります。
幕府を守るべきなのか。
新しい政治に期待するべきなのか。
それとも、自分たちの土地や一族を守るために、状況を見ながら行動するべきなのか。
一人ひとりが、異なる事情を抱えていたのでしょう。
義貞も、そのような時代を生きていました。
しかし、幕府に対する一般的な不満だけで、義貞が挙兵した理由を説明することはできません。
義貞自身と幕府との間に、何が起きたのか。
そこを考える必要があります。
楠木正成の戦いと、新田義貞の決断
1331年、後醍醐天皇による倒幕の動きが表面化します。
河内では、楠木正成が鎌倉幕府の軍勢と戦っていました。
正成は一度赤坂城を失いますが、その後も抵抗を続け、1333年には千早城で幕府軍を迎え撃ちます。
幕府は、正成を討伐するために各地から軍勢を集めました。
そして、この軍勢の中には、新田義貞も加わっていたと伝えられています。
太田市の歴史資料では、義貞が1333年3月、幕府による正成追討軍から離れて故郷へ戻った経過が紹介されています。
ここには、考えさせられるものがあります。
後に鎌倉幕府を滅ぼす義貞が、その直前まで幕府側の軍勢に加わっていたというのです。
なぜ、義貞はその軍勢を離れたのでしょうか。
正成の戦いを見て、幕府の力が弱まっていることを感じたのでしょうか。
後醍醐天皇からの働きかけがあったのでしょうか。
あるいは、すでに幕府と決別する考えを持っていたのでしょうか。
義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けたとする伝承もあります。
しかし、綸旨を受け取った具体的な経緯や、義貞が決断した瞬間の心境を、詳しく知ることはできません。
ただ、この時期、鎌倉幕府を取り巻く状況が大きく変化していたことは確かです。
正成の抵抗は続き、各地では幕府に反対する動きが生まれていました。
義貞もまた、その変化の中で自分の進む道を考えていたのでしょう。