源義経と弁慶、平泉寺に残された逃避行の記憶【3】
鳥が鳴けば、門が開く
平泉寺には「鳥吠小路」という場所が残されています。
義経一行の逃避行にまつわる、もう一つの重要な伝承です。
長吏は義経たちに、翌朝、最初に鳥が鳴けば門が開くことを伝え、早く出立するよう促したとされています。
これは、単なる道案内だったのでしょうか。
平泉寺の長吏は、一行の正体に気づいていたのでしょうか。
もし義経であることを承知していたとすれば、長吏は危険を理解しながら一行を見逃したことになります。
それはなぜだったのでしょう。
義経に同情したのか。
弁慶の説明を信用したのか。
あるいは、平泉寺と奥州藤原氏の間に、何らかの関係があったのでしょうか。

その答えを直接示す記録は見つかっていません。
しかし、私は、この伝承に登場する長吏の立場について考えずにはいられません。
一人の人間を助けたいという気持ちがあっても、それによって大勢の人々を危険にさらすわけにはいきません。
一方で、自分たちの安全だけを考えて、助けを求めてきた人間を見捨てることが正しいとも限りません。
この難しい状況で、長吏は一行を逃す道を選んだと伝えられているのです。
もし伝承の背景に実際の出来事があったなら、そこには単なる親切とは違う、人間同士の信頼や判断が存在していたのかもしれません。
そして、一行は再び奥州への道を進んでいきます。

もう一つの平泉、藤原秀衡とのつながり
ここで、少し視点を変えてみたいと思います。
義経が向かっていたのは、岩手県の奥州平泉です。
一方、今回の舞台は福井県の平泉寺。
この二つの土地には、名前が似ているというだけでは済ませられない興味深い伝承が残されています。
平泉寺に伝わる『霊応山平泉寺大縁起』には、1183年、藤原秀衡が白山へ銅像二体を奉納し、平泉寺には釣鐘を寄進したという記述があります。
さらに、秀衡が自分の住む城郭を「平泉館」と改めたという話も伝わっています。

この伝承から、奥州平泉の地名は越前の平泉寺に由来するという説も生まれました。
ただし、『霊応山平泉寺大縁起』は、義経や秀衡が生きていた時代よりもずっと後の記録です。
奥州平泉と越前平泉寺の地名の関係についても、確かな結論が出ているわけではありません。
むしろ、奥州平泉は秀衡の祖父である藤原清衡の時代から発展しており、伝承をそのまま年代順の事実として受け取るには難しい点があります。
それでも、なぜ越前の平泉寺に、奥州藤原氏の秀衡に関する伝承が残されたのでしょうか。
私は、この問いがとても面白いと思います。

当時の日本では、都と地方、寺院と武士、商人と職人など、さまざまな人々が行き来していました。
離れた土地であっても、信仰や交易、政治的なつながりを通じて情報が伝わることは十分に考えられます。
奥州藤原氏も、京都をはじめ各地との交流によって高度な文化を築いていました。
平泉寺もまた、白山信仰を通じて多くの人々と結びついていました。
もし両者の間に何らかの交流があったとすれば、義経一行が平泉寺を訪ねたという伝承にも、別の意味が見えてくるかもしれません。
ただし、ここで結論を急ぐ必要はないと思います。
歴史には、確かな記録が残っていることもあれば、いくつもの可能性が考えられるまま、答えが見つからないこともあります。
それでも、残された名前や伝承を一つひとつ調べていくことで、当時の人々の世界が少しずつ広がっていくのではないでしょうか。