敵だった男の妻となった板額御前。甲斐の地に残された、もう一つの人生【4】
山の中に残された、板額塚
山梨県笛吹市境川町小黒坂。
この地域には、板額御前の墓と伝えられる板額塚が残されている。
木々に囲まれた場所に、小さな石祠が祀られている。
かつて多くの敵兵を苦しめた女武者の墓としては、驚くほど静かな場所である。
伝承によれば、板額は浅利義遠が亡くなった後、娘のもとで余生を過ごしたという。
そして、この地で生涯を終え、葬られたと伝えられている。
義遠の死後に娘を頼ったという話が事実であれば、板額には夫との生活が終わった後にも、さらに別の人生があったことになる。
故郷の越後を離れ、甲斐へ移り、そこで家族を持つ。
そして、年齢を重ねてから、娘のいる土地へ移る。
最初から、このような人生を予定していたはずはない。
ただし、板額塚が実際の埋葬地だったことを裏づける同時代の記録は確認されていない。
後世に建てられた供養の場所だった可能性もある。
それでも、板額という女性の名前が、この山間の土地に残されていることは確かである。
なぜ、この場所で彼女を祀ろうとしたのだろう。
実際に暮らしていた女性の記憶が、子孫や地域の人々によって受け継がれてきたのだろうか。
あるいは、浅利氏の歴史を語り継ぐ中で、板額御前の物語も地域に根づいていったのだろうか。
私たちは、まだその答えを知らない。
けれども、小さな石祠が八百年以上前の女性の人生を考える入口になっていることは、実に興味深い。
浅利義遠が亡くなった後も続いた一族の歴史
浅利義遠は、1221年に亡くなったと伝えられている。
その年、日本では大きな政治的事件が起こっていた。
承久の乱である。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵し、幕府軍が京都へ進んだ戦いだった。
朝廷と幕府の関係は、この戦いによって大きく変化することになる。
義遠の死と承久の乱が、実際にどのように関係していたのかは分からない。
ただ、彼が生きた時代が、源平合戦から鎌倉幕府成立、そして承久の乱へと続く、大きな変化の時代だったことは確かである。
板額がその後も生きていたのであれば、彼女もまた、この変化する時代を経験したことになる。
かつて城氏の一族として鎌倉幕府と戦った女性が、今度は幕府を支える甲斐源氏の家族として、同じ時代を生きている。
その立場の変化は、決して小さなものではなかっただろう。
さらに、浅利氏の子孫たちは甲斐だけにとどまらず、奥州へも活動の場を広げていった。
『吾妻鏡』には、1226年、浅利太郎という人物が奥州白河の関での出来事に関係して登場する。
この人物が義遠の息子である知義にあたるのか、板額との間に生まれた子だったのかについては、検討の余地が残されている。
しかし、浅利氏の人々が甲斐から別の土地へ活動の場を広げていったことは、興味深い。
一人の武将が築いた家が、子や孫の世代へ受け継がれていく。
その過程で、人々は新しい土地へ移り、異なる人間関係を築きながら生きていった。
板額御前もまた、その一族の歴史の中にいたとすれば、彼女の人生は鳥坂城の戦いだけでは語り尽くせない。
戦場で名を残した一人の女性が、その後、家族や子孫の歴史の中で、別の役割を担っていた可能性があるのである。
いまも続く、越後と甲斐の交流
板額御前の名前は、八百年以上の年月を経た現在も、越後と甲斐の両方に残されている。
生まれ育ったと伝えられる新潟県胎内市。
そして、後半生を送ったとされる山梨県中央市周辺。
胎内市では、板額御前の人生を題材にした「板額の宴」という催しが開かれている。
その催しには、山梨県中央市から舞踊の団体が参加し、板額御前や浅利義遠を題材にした演目を披露した記録もある。
ここに、もう一つの歴史の面白さがある。
八百年前、板額御前は越後から鎌倉へ送られ、そして甲斐へ向かったとされている。
その移動は、本人が望んだ自由な旅だったわけではない。
一族の敗北という厳しい出来事から始まったものだった。
ところが、長い年月が経った現在では、彼女の名前が、越後と甲斐の人々を結びつけるきっかけになっている。
かつては政治的な争いの中で結びついた二つの土地が、現在では歴史や文化を通じて交流している。
板額御前本人が、そのような未来を想像できたはずはない。
私たちも、自分たちの人生が何百年も後に、どのような形で語り継がれるのかは分からない。
しかし、人間の行動や記憶は、本人が生きている時代だけで終わらないことがある。
板額御前という女性の名前が、今も異なる土地に暮らす人々をつないでいる。
そのこと自体にも、一つの歴史があるのだと思う。