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鎧を脱いだ巴御前。その後の人生と、91歳まで生きたという伝説【2】

2015.02.20

故郷の木曾へ帰ったという物語

『源平盛衰記』には、巴御前が義仲と別れた後、信濃へ戻ったという話がある。

そこでは、義仲の妻子や関係者に、最後の戦いの様子を語り伝えたとされている。

もし、この話が事実だったなら、巴はどのような思いで故郷へ戻ったのだろう。

幼い頃から暮らしていたと伝えられる木曾。

義仲や今井兼平、樋口兼光たちと、ともに過ごしたかもしれない土地。

そこに帰ってきたとき、彼らはもういない。

山も川も、以前と同じようにそこにあっただろう。

しかし、人間の生活は変わってしまっている。

義仲が挙兵した頃、彼を支えた人々は、勝利した後の未来をどのように思い描いていただろう。

平氏に勝ち、京都へ入り、新しい時代を切り開こうとしていたのかもしれない。

ところが、義仲は都に入ってから政治的に孤立し、最後には同じ源氏の軍勢に敗れた。

その結末を、故郷の人々はどのように受け止めたのだろう。

巴が生きて戻ったことを喜ぶ人もいたかもしれない。

一方で、義仲や兼平が帰ってこなかった現実を、受け入れられない人もいたのではないだろうか。

もちろん、これらは記録に残された具体的な出来事ではない。

しかし、戦争で生き残った人間が故郷へ戻るということは、単に元の生活に戻ることとは違うはずである。

出発したときと、帰ってきたときでは、自分も周囲も変わっている。

そして、自分が経験した出来事を、経験していない人々に伝えなければならないこともある。

巴が義仲の最期を伝えたという物語には、そのような重さが感じられる。

ただ、巴の人生は、この故郷への帰還だけでは終わらない。

次に登場するのは、義仲を追い詰めた側に属していた一人の武将である。

巴御前を妻にしたという和田義盛

和田義盛(わだよしもり)。

源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府の成立を支えた有力御家人の一人である。

義盛は、三浦一族の系統に属する武将だった。

源頼朝が勢力を拡大する過程で軍事的に活躍し、鎌倉幕府では侍所別当という重要な役職に就いた。

侍所は、御家人の統制や軍事・警察に関係する組織である。

その長官に就くということは、義盛が頼朝から一定の信頼を得ていたことを意味する。

では、この和田義盛と巴御前が、なぜ結びつけられたのだろう。

『源平盛衰記』には、巴御前が戦乱の後に鎌倉へ召し出されるという物語がある。

敗れた義仲に仕えていた巴は、頼朝のもとで処刑されそうになる。

ところが、そこで和田義盛が巴の助命を願い出たという。

その理由が、実に興味深い。

義盛は、巴の武勇に優れた能力を認め、そのような女性との間に強い子どもをもうけたいと望んだとされるのである。

そして巴は、和田義盛の妻になったという。

ここで考えたいのは、この話が現代の感覚でいう恋愛物語とは、まったく違うことである。

物語に描かれているのは、義盛が巴の能力に注目したという話である。

巴が義盛を愛していたのか。

義盛と暮らすことを、自分の意思で望んだのか。

あるいは、生き延びるために、その状況を受け入れたのか。

そこまでは分からない。

そもそも、この婚姻自体が事実だったと確認されているわけではない。

それでも、この伝承は一つの疑問を投げかけている。

人間は、置かれた環境が大きく変わったとき、何を優先して判断するのだろう。

昨日まで敵だった人間が、今日から自分を守る存在になることもある。

それまで築いてきた関係を失い、まったく新しい人々の中で生活しなければならなくなることもある。

義仲とともに戦っていた巴が、頼朝の有力御家人である義盛の妻になる。

もし本当にそのような人生を歩んだのなら、そこには相当大きな環境の変化があったはずである。

義仲のために戦っていた頃とは、周囲の人間も、自分に求められる役割も違う。

彼女は、その変化にどのように向き合ったのだろう。

巴御前の人生を考えるとき、戦場での勇敢さだけでなく、こうした環境の変化に向き合う力にも目を向けてみたい。

巴御前の息子と伝えられる、朝比奈義秀

和田義盛と巴御前の伝承には、もう一人、重要な人物が登場する。

朝比奈三郎義秀(あさひなさぶろうよしひで)。

和田義盛の息子であり、鎌倉時代の豪勇の武士として知られる人物である。

朝比奈義秀については、さまざまな怪力伝説が残されている。

海に潜って鮫を捕らえたという話。

大きな岩を動かしたという話。

そして、鎌倉の朝夷奈切通を一晩で切り開いたという伝説まである。

どこまでが実際の出来事なのかは分からないが、朝比奈義秀が強い武将として語り継がれてきたことは確かである。

そして『源平盛衰記』では、この義秀の母親が巴御前だったとされている。

武芸に優れた巴と、武勇で知られる和田義盛。

その二人の間に生まれた子どもだから、朝比奈義秀も並外れた力を持っていた。

物語としては、非常に分かりやすい。

しかし、ここで重要な問題がある。

朝比奈義秀の生年は、一般に1176年とされている。

一方、木曾義仲が討たれたのは1184年である。

つまり、巴が義仲の死後に和田義盛の妻になり、それから朝比奈義秀を産んだという話は、年代が合わない。

義秀は、義仲が討たれた時点で、すでに生まれていたことになるからである。

この矛盾は、伝承を考えるうえで見逃せない。

では、なぜ巴御前が朝比奈義秀の母親だという物語が生まれたのだろう。

ここには、人々が英雄の能力を説明しようとした可能性が考えられる。

並外れた強さを持つ武将がいる。

その強さは、どこから来たのだろう。

父親も強かった。

では、母親も強かったのではないか。

そこで、当時の女武者として有名だった巴御前の名前が結びついた。

そのような物語の形成も考えられる。

ただし、これも一つの解釈であって、伝承が成立した経緯を確定できるわけではない。

面白いのは、人々が朝比奈義秀の強さを説明するために、母親の能力にも目を向けていたことである。

当時の人々が、父親だけでなく母親から受け継がれるものにも関心を持っていたことがうかがえる。

もちろん、人間の能力は血筋だけで決まるものではない。

生まれ持った身体的特徴に加え、育った環境、身につけた技術、経験してきた出来事によって、その人のできることは変わっていく。

巴御前と朝比奈義秀の伝承は、史実としては問題が残るものの、人々が人間の能力をどのように理解しようとしていたのかを考える材料にもなる。

そして、朝比奈義秀の人生にも、父の和田義盛と同じく、大きな転機が訪れる。

それは、義仲が討たれてから約三十年後のことだった。

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