木曾の山々に育まれた絆。義仲と巴御前、運命をともにした人々【1】
幼い命を守った一人の男。その決断から始まった、木曾の仲間たちの物語。
1155年、武蔵国で一人の武将が討たれた。
源義賢(みなもとのよしかた)。
後に木曾義仲と呼ばれる少年の父である。
義賢を討ったのは、源義平。義賢の兄である源義朝の長男で、源頼朝にとっては兄にあたる人物だった。
つまり、この争いは源氏と平氏の戦いではない。
同じ源氏の一族同士が、勢力を争った結果だった。
後の歴史を知っている私たちは、源氏と平氏を対立する二つの大きな集団として考えがちである。
しかし、現実の人間関係はそれほど単純ではなかった。
同じ一族でも争い、血のつながらない者同士が命を預け合う。
家族だから必ず味方になるわけではなく、敵だから一生敵であり続けるとも限らない。
そうした複雑な人間関係の中で、まだ幼かった一人の少年が、父を失った。
幼名を駒王丸(こまおうまる)という。
後の木曾義仲である。
このとき駒王丸は、わずか二歳ほどだったと伝えられる。
父を失った幼い少年が、そのまま安全に成長できる保証はなかった。
父の敵対勢力から見れば、成長した駒王丸は、将来自分たちに刃を向ける存在になるかもしれない。
当時の武士社会では、一族の争いに敗れた者の子どもが、将来の危険を取り除くという理由で命を狙われることもあった。
駒王丸も、そうした危険の中に置かれていた。
しかし、この少年は生き延びた。
なぜだろう。
そこには、幼い子どもの命を奪うことをためらい、逃がした人々がいたと伝えられている。
伝承では、畠山重能や斎藤実盛らの関与によって、駒王丸は信濃へ送られたという。
その経緯には史料による違いがあるものの、駒王丸が木曾の中原兼遠に養育され、そこで成長していったという筋道は、義仲の生涯を考えるうえで重要である。
ここで興味深いことがある。
後に源平の争いで名を残す義仲は、幼い頃から自分の力で運命を切り開いたわけではない。
最初に彼の命をつないだのは、周囲の人々の判断だった。
誰かが助け、誰かが引き受け、誰かが育てた。
その積み重ねがなければ、後の木曾義仲という人物は存在しなかったかもしれない。
歴史に名を残す人間の背後には、名前が残らなかった多くの人々の働きがある。
駒王丸の人生は、まさにそこから始まっていた。
中原兼遠という人物
駒王丸を引き受けた中原兼遠(なかはらのかねとお)は、信濃国の木曾に勢力を持っていた人物である。
義仲の乳父として知られ、少年が成長するまで、その生活を支えたと伝えられている。
ここで少し、兼遠の立場を考えてみたい。
父を討たれた源氏の子どもを養育することは、単に困っている子どもを預かることとは違っていたはずである。
その子どもの出自を知る者から見れば、将来、政治的な争いに巻き込まれる可能性がある。
庇護する側も、その危険と無関係ではいられない。
兼遠が当時どこまで将来を見通していたのかは分からない。
義仲の父との関係や、源氏の一族との結びつき、地域の勢力関係など、複数の事情があったと考えるのが自然だろう。
ただ、結果として兼遠は駒王丸を育て、その成長を支えた。
その判断は、後の歴史に大きな影響を与えることになった。
では、兼遠は駒王丸をどのような環境で育てたのだろう。
木曾には、現在も兼遠の館があったと伝えられる場所が残されている。
木曽町上田の兼遠塚周辺である。
現地には義仲の元服に関係する松の伝承も残り、三方を川と崖に囲まれた地形が、館跡の特徴として伝えられている。
もちろん、現在見られる景観を、そのまま十二世紀の姿と考えることはできない。
川筋も道も、長い年月の中で変化している。
それでも、山地の中で川や崖を利用できる場所に館を構えることには、一定の合理性があったのではないだろうか。
人の往来を把握しやすく、周囲の地形を利用できる。
平地の広い地域とは異なり、木曾では、どこに生活の拠点を置くかが人々の暮らしに大きく関係していたはずである。
私たちは、残された地名や伝承だけでなく、こうした地形にも目を向けてみたい。
そこには、文字による記録とは異なる手がかりが残されていることがあるからだ。
木曾という土地が、人間に与えたもの
木曾は、周囲を山々に囲まれた地域である。
木曽川に沿って谷が続き、山間にはいくつもの集落が点在する。
現在では道路や鉄道が整備されているが、十二世紀の人々にとって、山を越え、川を渡り、遠くの集落へ移動することは、今よりはるかに大きな負担を伴っただろう。
険しい土地で暮らすことは、不便さばかりを意味するわけではない。
土地を知る者には、土地を知らない者にはない強みが生まれる。
どの道を通れば安全なのか。
どの季節に、どの場所が通りにくくなるのか。
雨が降れば、どの川が増水するのか。
どこに人や馬を休ませることができるのか。
そうした知識は、書物を読むだけでは十分に身につかない。
実際に暮らし、歩き、人から教わり、自分でも経験することで蓄積されていく。
それは軍事行動においても無関係ではなかっただろう。
ただし、義仲軍の強さを、木曾の険しい自然だけで説明することはできない。
信濃は古くから馬の生産や飼育と関係の深い地域であり、地域の武士たちの軍事的な経験や、周辺の勢力との結びつきも考える必要がある。
また、義仲の軍勢を支えたのは木曾の人々だけではなかった。
後に義仲が挙兵すると、信濃や北陸の多様な勢力が関わっていく。
つまり、木曾で育った人間関係が基礎となり、そこからより広い地域へと協力の輪が広がっていったと考えられる。
ここには、私たちがこれまでの歴史探訪でも繰り返し考えてきた問題がある。
人間は、生まれた時点ですべての能力を備えているわけではない。
周囲の環境や人々との関係の中で、新しい知識を得て、自分にできることを増やしていく。
そして、環境が変われば、それまでとは異なる能力が必要になる。
駒王丸が後に軍勢を率いる義仲へと成長していった過程でも、土地や人間関係が大きな意味を持っていたのではないだろうか。
では、その環境の中に、巴御前もいたのだろうか。