天武天皇と律令国家の謎|なぜ古代日本は、人と土地を把握しなければ国を動かせなかったのか【2】
天武天皇たちが本当に必要としていたのは、すべての人と土地を支配することだったのか。それとも、日本列島のどこに、どれほどの力があるのかを知り、それを実際に動かせる国家をつくることだったのか。
古代の戸籍、土地制度、木簡、都城建設、道路、そして名もなき人々の仕事を手がかりに、律令国家が生まれていく過程を探っていきます。
壬申の乱に勝った天武天皇は、何を手に入れたのか
天武天皇は、壬申の乱に勝利したことで政治の主導権を握りました。
しかし、その勝利を可能にしたのは、天武天皇自身が最初から持っていた軍事力だけではありません。
美濃、伊賀、伊勢などの地域に存在した人々の協力が重要でした。
前回の歴史探訪では、大海人皇子が各地の人々を味方につけ、不破道などの交通の要衝を押さえながら軍勢を拡大したことに注目しました。
ここで、もう一度考えてみます。
もし、美濃の人々が大海人皇子に協力しなかったら、どうなっていたでしょうか。
もし、不破道を近江側に押さえられていたら。
もし、各地の豪族が兵士や食料を提供しなかったら。
大海人皇子が勝利できたかどうかは分かりません。
つまり、天武天皇自身が、地方の人々の力によって政治の中心に立つことができた人物だったのです。
では、天皇になった後はどうでしょうか。
今度は国全体を治めなければなりません。
しかし、全国の豪族が常に同じ考えで行動するとは限りません。
天皇の命令に協力する人もいれば、地域の事情を優先する人もいたでしょう。
豪族同士の利害が対立することも考えられます。
このような状況で国家を安定して運営するには、何が必要だったのでしょうか。
ここで私たちは、一つの可能性を考えます。
壬申の乱は、天武天皇に地方の協力の重要性を教えたと同時に、その協力が得られなければ中央の権力は十分に機能しないという現実も示したのではないか。
もしそうであれば、戦争の勝利後に国家制度の整備が進められたことには、別の意味が見えてきます。
個人的な関係や、そのときの政治状況によって人々を動かすのではなく、一定の制度によって継続的に人や物資を動かす仕組みが必要だったのかもしれません。
ただし、天武天皇がこの問題意識を明確に持っていたと証明する記録はありません。
ここで述べているのは、壬申の乱の経過と、その後の国家形成を結びつけた私たちなりの考察です。
なぜ国家は、人々の名前まで知る必要があったのか
古代国家の仕組みを考えるうえで、重要なものの一つが戸籍です。
『日本書紀』によれば、670年、天智天皇の時代に庚午年籍(こうごねんじゃく)が作成されました。
つまり、戸籍の整備は天武天皇が即位する前から進められていました。
さらに690年、持統天皇の時代には庚寅年籍(こういんねんじゃく)が作成されます。
これは後の班田収授などの制度と深く関わるものとされています。
ここで重要なのは、戸籍が単なる名前の一覧ではなかったということです。
人々の所属や家族関係、年齢などを把握することで、国家は税や労働の負担を考えるための情報を得ることができます。
しかし、ここに疑問があります。
そもそも、国家はなぜ一人ひとりを把握する必要があったのでしょうか。
地方の豪族に「必要な人数を集めてほしい」と命じるだけでは、足りなかったのでしょうか。
例えば、ある地域から百人の労働者が必要になったとします。
豪族が百人を集めれば、工事を進めることはできるかもしれません。
しかし、その百人がどのような人々なのかを中央が知らなければ、同じ地域に何度も大きな負担をかけてしまう可能性があります。
逆に、実際には多くの人が暮らしている地域でも、中央が人口を把握していなければ、必要な労働力を確保できないかもしれません。
食料の生産についても同じことが考えられます。
農業を担う人々がどこに暮らしているかを把握できれば、国家は地域ごとの負担を計画しやすくなります。
ただし、戸籍が実際にどの程度正確だったのか、すべての人々を漏れなく把握できていたのかは別の問題です。
それでも、戸籍を作成するという行為には重要な意味がありました。
国家が、地方豪族から報告される結果だけでなく、その背後にいる人々を直接把握しようとしたのではないか。
ここに、それまでの支配の仕組みとの大きな違いがあった可能性があります。