壬申の乱の謎|わずかな従者で吉野を出た大海人皇子は、なぜ国家の軍勢を破ることができたのか【9】
大海人皇子が勝利した理由を、もう一度考えてみる
ここまで、壬申の乱を道路、地域社会、物資の移動という視点から見てきました。
その中で、私たちが特に重要だと感じたことがあります。
大海人皇子は、最初から大軍を持っていたわけではありません。
政治の中心も近江側にありました。
それでも、大海人皇子は勝利しました。
では、何が勝敗を分けたのでしょうか。
私たちは、その答えの一つが、自分が持っていない力を、どのようにして自分の側へ結びつけたかという問題にあるのではないかと考えます。
大海人皇子の周囲には、少数の従者しかいませんでした。
しかし、美濃には以前からの関係を持つ人々がいた可能性があります。
伊賀や伊勢には、地域の豪族や人々がいました。
彼らが持っていたのは、兵士だけではありません。
地域の地形を知る知識。
人々を集める力。
食料を生産する力。
物資を運ぶための手段。
それぞれの地域で培われてきた経験。
そうしたものを、大海人皇子側は戦いの中で利用できた可能性があります。
一方、近江側には政治の中心がありながら、地方の協力を十分に得られなかった地域がありました。
命令する権限があっても、実際に動いてくれる人々がいなければ、その権限だけでは戦争を進められません。
この違いは、壬申の乱を考えるうえで非常に重要だと思います。
もちろん、実際の勝敗には、軍勢の規模、戦闘の経過、指揮官の判断など、さまざまな要因がありました。
それらを無視して、協力者の存在だけで結果を説明することはできません。
しかし、短期間で軍勢を拡大したという記録を考えると、地域社会との関係が重要だったことは見逃せません。
そして、ここでさらに一つの疑問が生まれます。
大海人皇子が勝利したのは、近江側より優れた国家の仕組みを持っていたからなのでしょうか。それとも、まだ完成していなかった国家の仕組みを、地方の人々との関係によって補うことができたからなのでしょうか。
この違いは、戦いの後の国家づくりを考えると、さらに重要になってきます。
天武天皇は、自分が勝った方法を国家制度に置き換えようとしたのか
壬申の乱に勝利した大海人皇子は、673年、飛鳥で天武天皇として即位しました。
その後、天武天皇の時代には、国家制度の整備が進められていきます。
官人の制度を整え、氏族の序列を再編し、国家の支配体制を強化しようとする動きが見られました。
684年には八色の姓(やくさのかばね)が制定されました。
また、律令の編纂も進められ、後の飛鳥浄御原令へとつながっていきます。
ただし、これらの政策がすべて壬申の乱の経験から生まれたと断定することはできません。
天武天皇以前から国家制度の整備は進んでおり、天武天皇もその流れを受け継いでいました。
それでも、私たちはここで興味深いことに気づきます。
壬申の乱で大海人皇子が勝利するためには、地方の豪族や人々の協力が必要でした。
しかし、国家を安定して運営するために、毎回そのような個人的な関係に頼ることはできません。
もし地方の豪族が中央の命令に従わなければ、壬申の乱の近江側と同じような問題が起こる可能性があります。
地方の事情によって兵士や物資が集まらない。
重要な道路が別の勢力によって押さえられる。
中央の意思が各地に届かない。
そのような状態では、国家全体を統一して動かすことは難しくなります。
では、天武天皇は何を考えたのでしょうか。
自分が勝利したときに利用できた地方の協力を、今度は国家の制度として安定させる必要を感じたのでしょうか。
ここから、私たちは一つの仮説を考えます。
壬申の乱で大海人皇子を勝利に導いた人と人との関係を、天武天皇は、より継続的に国家を動かすことのできる制度へと発展させようとしたのではないか。
もちろん、このような目的が天武天皇自身の言葉で明確に記録されているわけではありません。
しかし、戦いの中で地方の力の重要性を経験した人物が、その後に国家制度の整備を進めたという流れには、考える価値があるように思います。