壬申の乱の謎|わずかな従者で吉野を出た大海人皇子は、なぜ国家の軍勢を破ることができたのか【3】
大海人皇子は、なぜ吉野へ退いたのか
天智天皇の晩年、皇位継承をめぐる問題が表面化しました。
天智天皇には、弟の大海人皇子と、息子の大友皇子がいました。
『日本書紀』によれば、天智天皇は病床で大海人皇子に後事を託そうとしましたが、大海人皇子は辞退し、出家して吉野へ退きました。
この場面については、天智天皇の真意や、大海人皇子が何を考えていたのか、分からない部分が残っています。
大海人皇子が本当に政治から身を引こうとしていたのか。
それとも、身の危険を避けるために、いったん近江の政治の中心から離れたのでしょうか。
『日本書紀』の記述だけで、その内心を確定することはできません。
ただし、後に大海人皇子が吉野から挙兵したことを考えると、ここで一つの疑問が生まれます。
吉野は、政治的に孤立する場所だったのでしょうか。
確かに、近江の大津宮からは離れています。
しかし、吉野は山々に囲まれた地域でありながら、大和の各地や伊賀方面へつながる道も存在していました。
山深い場所に身を置くことは、政治の中心から離れることでもあります。
一方で、中央の監視や圧力から距離を置き、周囲の動きを見ながら行動するための時間を確保できた可能性もあります。
ここで私たちは、吉野への退去を単なる隠居とは違う角度から考えてみます。
大海人皇子は、政治の中心を離れることで、逆に自分が行動するための自由を確保したのではないか。
もちろん、最初から挙兵を計画して吉野へ入ったという証拠はありません。
しかし、少数の人々で行動を開始し、東国の協力を得ることに成功した後の展開を見ると、吉野で過ごした時間が何を意味したのかという疑問は、簡単には消えません。
なぜ大海人皇子は、都へ向かわず東国を目指したのか
672年6月、大海人皇子はついに行動を開始しました。
『日本書紀』によれば、大海人皇子はまず村国男依(むらくにのおより)らを美濃へ派遣し、兵士を集め、不破道を押さえるよう命じました。
その後、自身も吉野を出発します。
進路は、近江の大津宮へ直接向かうものではありませんでした。
大海人皇子は宇陀から伊賀へ入り、伊勢を経由して美濃へ向かいました。
ここが、今回の謎を解く重要な部分だと考えます。
もし大海人皇子が、近江の政治の中心をただちに倒すことだけを考えていたならば、なぜ遠回りにも見える東への道を選んだのでしょうか。
大津宮へ向かうには、敵側の軍勢と正面から向き合う必要があります。
少数の従者しかいない段階では、直接攻撃することは非常に危険だったはずです。
一方、東へ向かえば、途中に伊賀や伊勢があり、その先には美濃、尾張などの地域が広がっています。
そこには、土地を治める豪族や人々が存在していました。
つまり、大海人皇子の進路は、敵を直接攻撃するための道ではなく、味方となる人々を増やすための道だった可能性があります。
しかし、それだけではありません。
大海人皇子は、自身が出発する前に、美濃へ使者を送り、不破道を押さえるよう命じているのです。
なぜ、まだ十分な軍勢が集まっていない段階で、道の確保を優先したのでしょうか。
ここに、大海人皇子の戦い方を考える重要な手がかりがあるように思います。