壬申の乱の謎|わずかな従者で吉野を出た大海人皇子は、なぜ国家の軍勢を破ることができたのか【1】
672年、日本列島を揺るがす大きな内乱が起こりました。
天智天皇の死後、皇位をめぐって対立した大海人皇子(おおあまのおうじ)と大友皇子(おおとものおうじ)の戦いです。
後に「壬申の乱(じんしんのらん)」と呼ばれるこの戦いは、大海人皇子の勝利に終わり、翌673年、大海人皇子は天武天皇として即位しました。
しかし、この戦いには不思議なことがあります。
大海人皇子は、最初から大軍を率いていたわけではありません。
『日本書紀』によれば、大海人皇子が吉野を出発したとき、付き従っていたのはごく少数の人々でした。
一方、近江の大津宮には、天智天皇から続く政治機構が存在していました。
官人がいて、各地との連絡手段があり、兵士や物資を集める仕組みもあったはずです。
普通に考えれば、政治の中心にいた近江側が有利に思えます。
ところが、大海人皇子は吉野から東へ向かい、伊賀、伊勢を経て美濃へ進み、各地の協力を得ながら急速に勢力を拡大していきました。
そして、約1か月にわたる戦いの末、近江側を破ったのです。
なぜ、このようなことが可能だったのでしょうか。
大海人皇子が優れた指導者だったからでしょうか。
地方の豪族たちが、近江側の政治に不満を抱いていたからでしょうか。
もちろん、そのような可能性はあります。
しかし、私たちはここで別の疑問を持ちました。
大海人皇子は、兵士を集めるよりも先に、兵士が動くための道と、人々を動かすための仕組みを押さえようとしたのではないか。
そして、もう一つ。
この戦いの勝敗を分けたのは、最初に持っていた軍勢の大きさではなく、各地に存在する力を、どちらが先に結びつけられるかという問題だったのではないか。
今回は、皇位継承をめぐる争いという政治的な側面だけでなく、道路、情報、地域の生産力、人々の移動、そして戦争を実際に支えた名もなき人々の働きに目を向けながら、壬申の乱の謎を探っていきます。