「香取の海」は、一つの巨大な交通路だったのか
現在の関東平野を見ると、東京湾と霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼は別々の水域に見えます。
しかし古代には、その境界は今ほど明確ではありませんでした。
約6000年前には、霞ヶ浦から印旛沼、手賀沼方面までが一続きの大きな入り海の一部でした。さらに千年ほど前でも、霞ヶ浦周辺は香取海へつながる広い水域でした。水資源機構
香取市も、現在の霞ヶ浦や印旛沼にまたがる広大な内海が存在したことを説明しています。香取市公式サイト
この古地形を見ていると、現在の県境はほとんど意味を失います。
千葉。
茨城。
埼玉。
東京。
今なら別々です。
でも船の上から見れば、水は一続きです。
内海を進み、
川へ入り、
支流へ分かれ、
津へ着く。
そうやって人が移動していたとすれば、文化や祭祀も水路に沿って広がります。
そこで鹿島、香取、印旛を一枚の地図に置いてみます。
鹿島と香取は香取海の東側。
印旛沼はその西側へ延びる水の世界。
麻賀多神社群は、その印旛地域に集中する。
別々に見ていたものが、一つの水面によってつながってきます。
もちろん、
「だから全部が同じ国家だった」
とは言えません。
そんな単純な話ではないと思います。
むしろ、大きな水上交通網の中に複数の地域社会があり、それぞれ固有の祭祀や有力者を持ちながら交流していた。
その方が自然です。
人は行き来する。
物も動く。
でも祀る神は違う。
言葉も少し違う。
有力者も別にいる。
必要なときには協力する。
争うこともある。
これなら「一つの国家」より、かなり人間らしい世界です。
古代の東国は、巨大な一枚岩ではなく、水路によってつながる複数の地域社会だったのかもしれません。
そう考えると、日高見国を「国境線のある国」として探す必要もなくなってきます。