古墳時代の船は何を運んでいたのか――久宝寺遺跡と船形埴輪から海の道を追う
大阪府八尾市の久宝寺遺跡から、古墳時代の船が見つかっています。
土に描かれた船ではありません。
実際に水の上を進んだと考えられる「準構造船」です。
さらに大阪や奈良では、船そのものをかたどった船形埴輪も見つかっています。国立歴史民俗博物館には、大阪府高廻り2号墳から出土した5世紀の船形埴輪の複製が収蔵されています。
なぜ、墓に船を置いたのでしょう。
死者を送るための象徴だったのか。
船に関係する人物だったのか。
それとも、船そのものが特別な力を持つものと考えられていたのか。
答えは一つには決まりません。
ただ、船が古墳時代の社会で無視できない存在だったことは、複数の痕跡から見えてきます。
大阪では、住吉津や難波津と呼ばれる港が後の時代に重要な役割を持つようになります。また藤井寺市の文化財解説では、久宝寺遺跡の準構造船や船形埴輪とともに、難波周辺の港湾施設や須恵器・鉄器生産との関係が紹介されています。
ここで、これまで追ってきたものを並べてみます。
須恵器。
鉄。
木材。
人。
新しい技術。
これらは、土地にじっとしていたわけではありません。
どこかから、どこかへ動いています。
陸路だけで大量の荷物を運ぶのは大変です。しかし川や海なら、船を使って一度に多くの物を動かせます。
大阪湾から瀬戸内海へ目を広げると、古代の日本列島は海で分断されていたというより、むしろ海によってつながっていたのではないか。
そんな見方もできそうです。
そして船をつくるにも、大きな木材、それを加工する道具、船を組み立てる技術、操る人が必要です。
船もまた、一人の発明ではありません。
森の資源と加工技術、経験を持つ人々、そして移動する必要性が組み合わさって生まれた道具だったはずです。
古代の海を走っていた船。
そこに積まれていたのは、鉄や土器だけではなかったのかもしれません。
技術や知識そのものも、一緒に運ばれていたのではないでしょうか。