須恵器はなぜ日本中へ広がったのか
須恵器はなぜ日本中へ広がったのか
古墳時代の遺跡を見ていると、日本各地から灰色の硬い器が出てきます。
須恵器です。
それまで多く使われていた土師器とは、見た目から違います。
赤や茶色ではない。
灰色や黒っぽい色。
叩くと硬い。
そして、それを焼くためには1000度を超える高温が必要です。
国立歴史民俗博物館は、朝鮮半島の影響を受けて登場した須恵器が、古墳時代にまたたく間に各地へ普及したと説明しています。
でも、ここで疑問が出てきます。
なぜ、そんなに早く広がったのでしょう。
良い器だったから。
それだけでしょうか。
須恵器を作るには、窯が必要です。
ろくろが必要です。
粘土を選ぶ知識が必要です。
薪も大量に必要です。
つまり、完成した器を一個持ってきても、同じものは作れません。
作り方そのものを知る人が必要になります。
大阪府の陶邑窯跡群では、5世紀から約500年間にわたり須恵器が生産されました。
確認された窯は約400基。
東西約10キロ、南北約6キロに広がる巨大な生産地でした。
一方で、福岡県の朝倉須恵器窯跡では、陶邑とほぼ同じ時期に須恵器生産が始まっています。
つまり、最初から一か所だけで作られ、全国へ完成品を送り続けたわけではありません。
各地でも窯が作られています。
さらに福岡県の牛頸須恵器窯跡では、約500基もの窯があったと推定され、奈良時代には北部九州全体へ須恵器を供給していました。
ここまで来ると、須恵器の広がり方が少し見えてきます。
最初は器が動いた。
次に、それを作れる人が動いた。
その土地で新しい職人が育った。
そして、その土地にも窯ができた。
そこからまた別の場所へ器が運ばれる。
つまり須恵器の広がりは、商品の流通だけではありません。
技術者の移動。
技術の伝承。
地域ごとの生産。
その三つが重なった結果だったのではないでしょうか。
面白いのは、地方で作られた須恵器が、ずっと同じ形ではないことです。
朝倉須恵器窯跡では、最初は朝鮮半島の加耶系の特徴を持つ器が作られ、やがて陶邑系の作り方へ変化していきます。
技術の流れが、器の形に残っているのです。
文字がなくても、
「ここに誰かが来た」
「新しい作り方を覚えた」
そんな痕跡が器から見えてきます。
須恵器は、ただの古い焼き物ではありません。
古代日本を人と技術がどう移動したのかを残した、手がかりなのではないでしょうか。