陶邑窯跡群と須恵器|1600年前の巨大生産地はなぜ泉北に生まれたのか
今の泉北ニュータウンから、マンションも道路も消してみます。
すると約1600年前、この丘陵には別の景色が広がっていました。
山の斜面に掘られた窯。
そこから立ち上る煙。
運び込まれる大量の薪。
土をこね、ろくろを回し、窯の温度を上げる人々。
ここは、陶邑窯跡群。
堺市から和泉市、大阪狭山市などにまたがる広大な地域に、古墳時代から須恵器を焼く窯が次々と作られました。
堺市は、陶邑窯跡群を日本最大規模の須恵器生産地として紹介しています。
しかし、ここで一つ疑問が出てきます。
なぜ、この場所だったのでしょう。
須恵器は、それまでの土器とは作り方が違います。
窯の中を1000度以上にしなければならない。
そのためには窯を作る技術だけでなく、大量の薪、粘土、水、そして完成した器を運ぶ仕組みも必要です。
さらに、その技術自体が朝鮮半島から伝わったものとされています。
つまり、窯だけが突然現れたわけではありません。
技術を知る人が来た。
土地を知る人と出会った。
粘土を探す人がいた。
山から木を切り出す人がいた。
器を作る人が増えた。
そして完成した須恵器を各地へ運ぶ人がいた。
一つの窯の後ろに、多くの仕事が隠れています。
しかも陶邑の生産は、短期間で終わったわけではありません。
場所を移しながら、何百年も続いていきます。
堺市の説明には、やがて須恵器を焼くための薪をめぐって争いが起きた記録まで紹介されています。
山の木が足りなくなるほど焼いた。
そう考えると、陶邑の大きさが少し実感できます。
そしてもう一つ、気になる名前があります。
『日本書紀』に登場する「茅渟県陶邑」。
大田田根子が見つかったと記される場所です。
大田田根子がいたとされる時代と、須恵器生産が本格化する時代をそのまま重ねることはできません。
それでも、この地域に後世、日本最大級のものづくりの集積地が現れたことは興味深いことです。
陶邑には、何か特別な王がいたから技術が栄えたのでしょうか。
それとも、人が集まり、技術を教え合い、材料を探し、失敗しながら改良した結果、巨大なものづくりの町になったのでしょうか。
地面の下から見つかった何百もの窯跡は、後者の物語を語っているようにも見えます。
陶邑の主役は、一人の英雄ではありません。
土と火と格闘し続けた、名前の残らない無数の職人たちだったのではないでしょうか。