戦場を駆けた女性、巴御前。その生涯に隠された謎【2】
都へ進んだ義仲軍
1180年、以仁王の令旨を契機として、各地で平氏に対する武装蜂起が起こった。
義仲も信濃で挙兵し、北陸方面へ勢力を広げていく。
1183年、義仲軍は倶利伽羅峠の戦いで平氏軍に大きな打撃を与えた。
現在の富山県と石川県の境に位置するこの地域には、山地と峠道が続いている。
大軍が移動するには、地形の制約を強く受ける場所である。
平氏軍を谷へ追い落としたという「火牛の計」は有名だが、この話も後世の軍記物語による脚色の可能性があり、そのまま史実とは断定できない。
それでも、義仲軍が北陸方面で勝利を重ね、平氏を都から退去させる大きな要因となったことは確かである。
同年、義仲は京都へ入った。
木曾の山間地で育った一人の武将が、中央の政治を動かす立場にまで上り詰めたのである。
ところが、義仲にとって京都での生活は、戦場とは異なる難しさを持っていた。
都では、武力だけで物事を動かすことはできない。
朝廷との関係、貴族たちの思惑、食糧の確保、軍勢の統制。そして、同じ源氏でありながら独自の勢力を築いていた頼朝との対立。
木曾の仲間たちとともに戦ってきた義仲は、まったく異なる政治の世界に身を置くことになった。
山野での戦いに強いことと、多くの利害関係が絡み合う京都を治めることは、同じ能力ではない。
義仲は次第に政治的に孤立し、やがて頼朝が派遣した源範頼・源義経の軍勢と戦うことになる。
1184年、宇治川や瀬田方面で戦いが起こり、義仲軍は敗れた。
そして義仲は、近江国の粟津へ向かう。
ここで、巴御前にまつわる最も有名な場面が登場する。
最後まで残った五騎
『平家物語』によれば、義仲の軍勢は敵軍との戦闘を繰り返すうちに、次々と兵を失っていった。
三百余騎。
五十騎。
そして、最後には五騎にまで減ってしまったという。
その五騎の中に、巴御前がいた。
義仲は、巴に戦場から離れるよう命じる。
自分はここで討ち死にするつもりだ。だから、お前は生き延びよ。
物語では、義仲は女性を最後の戦場に連れていたと評されることを気にしたとも語られている。
しかし、巴はすぐには立ち去らない。
そして、最後に一度、自分の戦いを見せたいと願う。
そこへ、武蔵国の御田八郎師重が約三十騎を率いて現れた。
巴は敵陣へ馬を進め、師重を組み伏せ、その首を取ったという。
その後、身につけていた武具を脱ぎ捨て、東国へ向かって落ちていった。
『平家物語』が描く巴御前の最後の戦場は、このような場面で終わる。
ここには、いくつもの疑問が残されている。
義仲は、なぜ巴を逃がそうとしたのだろう。
武将として信頼していたからこそ、最後まで戦わせようとしたのではなく、生き延びることを望んだのだろうか。
あるいは、義仲には別の考えがあったのかもしれない。
巴自身は、どうだったのだろう。
ともに育ち、ともに戦ってきた仲間たちが次々と倒れていく中で、自分だけが戦場を離れることを受け入れられなかったのだろうか。
ここで忘れてはいけないのは、これらの会話や行動が『平家物語』という軍記物語に描かれたものであり、実際に交わされた言葉を記録したものではないということだ。
それでも、物語を残した人々が、なぜこの場面を語り継ごうとしたのかは考える価値がある。
一人の武将の最期を描く中で、最後までともに戦いながら、生きて別れる女性を登場させた。
そこには、戦いの勝敗だけでは表現できない、人間同士の結びつきが描かれているように思える。