日高見国へ続く水の道【前編】
「東の国」は、本当に陸の向こうにあったのか
日高見国という名前を聞くと、どうしても「東北」を思い浮かべます。
でも私は、少し違う見方をしてみたいと思います。
古代の人にとって、「東へ進む」というのは、今の私たちのように道路を走って県境を越えることではありません。
水を使う。
川を下る。
入り江を渡る。
風を読んで舟を出す。
つまり東への道は、陸の上だけにあったわけではない。
水の上にもあった。
ここまで見てきた麻賀多神社、香取神宮、息栖神社、鹿島神宮も、
すべて水と切り離すと関係が見えにくくなります。
印旛沼。
香取の海。
北浦。
霞ヶ浦。
そしてその周辺に伸びる川。
今では別々の湖や川として見えていますが、古い時代にはもっと大きな水の世界でした。
8世紀頃の霞ヶ浦は現在より2倍から3倍ほど広く、海水が入り込む大きな入り江だったと
国土交通省は説明しています。
『常陸国風土記』では、この水域を「流海」と記しています。
現代の霞ヶ浦を見ると、湖です。
でも昔の人の目で見ると、もっと海に近い。
ここで暮らす人にとって、水は土地を分断するものではありません。
むしろ、
向こう岸へ行くための道
でした。
その証拠の一つが鹿島です。
『常陸国風土記』には、鹿島の神へ舟三隻を献じたことから、毎年舟を作って津へ
奉納する祭りが始まったという話があります。
鹿嶋市も、この背景に広大な内海があり、多くの人々が舟で往来していたと説明しています。
私はこの話を、単なる神事として読みたくありません。
なぜ神様に舟なのか。
馬でもいい。
刀でもいい。
米でもいい。
なのに舟が重要だった。
それは、
この土地で舟がそれだけ大切だったからではないでしょうか。
舟がなければ人に会えない。
舟がなければ物を運べない。
舟がなければ魚場へ行けない。
舟がなければ遠くの情報も入ってこない。
この世界では舟が生活そのものだった。
そう考えると、鹿島神宮と香取神宮が大きな水域を挟んで向かい合っていることにも、
また違った意味が出てきます。
さらに西には印旛沼と麻賀多神社群がある。
そして北西へ視線を動かすと筑波山が立っています。
水の世界から見れば、筑波山ほど分かりやすい目印もありません。
遠くからでも見える。
雲の状態が分かる。
方角も分かる。
舟を進める人間にとって、山は単なる信仰対象ではなく、巨大な標識でもあります。
そして霞ヶ浦周辺を見ると、沿岸には多くの古墳が並んでいます。
茨城県の資料では、4世紀末から6世紀前半に霞ヶ浦周辺で有力者が現れ、多数の古墳が
築かれたとされています。
また、北岸では5世紀頃には谷津田の開発も進んでいました。
つまりここにも、
人がいた。
農業があった。
有力者がいた。
そして大量の人間を動かせる社会があった。
「何もない東国に中央から文明がやってきた」
という景色ではありません。
すでに社会があった。
その中を、水がつないでいた。
ここで日高見国を考えます。
日高見国については、『日本書紀』など複数の古代文献に名前が現れますが、
その所在地や範囲については諸説あります。
だから私は、「ここからここまでが日高見国だった」と地図に線を引くつもりはありません。
ただ、常陸国風土記の世界を見ていると面白いことがあります。
信太郡。
現在の霞ヶ浦南岸から稲敷方面にあたる地域です。
その信太郡の記述には、海辺を巡る話があり、「乗浜」という土地についても、浜辺で
海苔を干していたことから名が付いたという記録が残っています。
現在の稲敷市周辺に比定されています。
ここでも、水です。
しかも信太郡について研究した資料では、「フツの大神と物部」というテーマまで出てきます。