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北条時行とその一族【第3回】

2015.08.26

諏訪頼重はなぜ少年を守ったのか

滅亡した北条氏の血を守り抜いた一族と、信濃に隠された二年間の謎

1333年5月22日。

鎌倉幕府が滅亡した日、北条高時は東勝寺で自害しました。

北条氏の一族や、幕府を支えてきた多くの武士たちも命を落としました。

しかし、その混乱の中で生き延びた少年がいました。

北条時行。

高時の息子であり、鎌倉幕府の実権を握ってきた北条得宗家の後継世代にあたる人物です。

時行は鎌倉から脱出し、信濃国の諏訪氏に保護されたと伝えられています。

ところが、その後の約二年間については、詳しい記録がほとんど残されていません。

どこで暮らしていたのでしょうか。

誰が身の回りの世話をしていたのでしょうか。

そして、なぜ諏訪氏は、新しい政権から追われる可能性のある少年を守り続けたのでしょうか。

諏訪氏にとって、それは一族の存続を左右する危険な選択でもありました。

今回は、北条時行の逃亡と、少年を守った諏訪一族の歴史を追います。

北条氏と諏訪氏の関係はいつ始まったのか

諏訪氏は、信濃国諏訪地方を中心に勢力を持っていた一族です。

現在の長野県諏訪市、茅野市、下諏訪町などにあたる地域です。

諏訪氏の大きな特徴は、武士としての立場と、諏訪社の祭祀を担う立場を併せ持っていたことでした。

中世の諏訪氏は、地域社会の宗教的な権威と軍事的な力の両方に深く関わっていました。

鎌倉幕府が成立すると、諏訪氏の一族は北条氏との関係を強めていきます。

特に重要だったのが、得宗家の御内人としての立場です。

御内人とは、北条氏の嫡流である得宗家に直属する家臣を指します。

鎌倉幕府には将軍に仕える御家人がいましたが、得宗家の御内人は、それとは異なる主従関係にありました。

得宗家の権力が強まると、御内人の中には幕府政治へ大きな影響力を持つ人物も現れました。

諏訪氏も、そうした得宗家の支配を支える重要な一族でした。

つまり、諏訪氏と北条氏の関係は、1333年に時行を保護したことで突然始まったものではありません。

長い年月をかけて築かれてきた政治的・軍事的な関係が、その背景にあったのです。

鎌倉にいた諏訪一族

諏訪氏の本拠は信濃国でした。

しかし、諏訪一族の活動は信濃だけに限られていません。

鎌倉幕府の時代には、得宗家に仕えるため鎌倉で活動する諏訪氏の人々もいました。

一族の中には、得宗家の政治や軍事に関わる者がいたのです。

ここで重要なのは、諏訪氏全体を一つの集団として考えないことです。

信濃で諏訪社の祭祀を担う人々。

鎌倉で北条得宗家に仕える人々。

地域の土地を支配する武士たち。

それぞれの役割は、必ずしも同じではありませんでした。

また、親族であっても政治的な立場や活動する場所が異なることがありました。

1333年、鎌倉幕府が滅亡すると、諏訪一族も大きな打撃を受けます。

『太平記』などには、北条高時とともに命を落とした諏訪氏の人物も登場します。

一方、時行を鎌倉から逃がしたとされる諏訪盛高のように、別の役割を担った人物もいました。

同じ一族の中で、命を落とした者と、生き残った少年を守った者がいたのです。

北条時行を救った諏訪盛高

北条時行の逃亡について、重要な記述が残されているのが『太平記』です。

そこには、諏訪盛高が時行を鎌倉から脱出させたことが記されています。

盛高は北条得宗家に仕える御内人だったとされています。

さらに、この逃亡には北条高時の弟・北条泰家が関わったと伝えられています。

鎌倉幕府が滅亡する混乱の中で、得宗家の後継者を生き延びさせようとする動きがあったのです。

しかし、この話には疑問も残ります。

盛高は、いつ時行を連れ出したのでしょうか。

鎌倉が完全に陥落する前だったのでしょうか。

どの道を通って信濃へ向かったのでしょうか。

当時の鎌倉は、新田義貞の軍勢によって攻撃されていました。

主要な交通路には戦闘が及び、多くの武士たちが逃亡や抵抗を試みていたと考えられます。

その中から幼い少年を連れ出し、遠く信濃まで移動することは、容易なことではなかったはずです。

ただし、具体的な逃亡経路を確定できる史料はありません。

現在残る伝承と、当時の地形や交通路を照らし合わせながら考える必要があります。

時行は本当に何歳だったのか

北条時行の生年には諸説があります。

1333年の幕府滅亡時に、5歳前後だったとする説もあれば、8歳程度だったとする説もあります。

つまり、時行が正確に何歳で鎌倉から逃れたのかは分かっていません。

しかし、いずれの説でも幼い少年だったことになります。

自ら大勢の家臣を指揮して逃亡計画を立てられる年齢だったとは考えにくいでしょう。

時行の脱出には、周囲の大人たちの判断と協力が必要だったと考えられます。

では、誰が少年の将来を決めたのでしょうか。

北条泰家だったのでしょうか。

諏訪盛高だったのでしょうか。

それとも、複数の関係者が役割を分担していたのでしょうか。

史料からすべてを確定することはできません。

しかし、時行の生存が、その後の北条氏再興運動につながったことは重要です。

なぜ信濃の諏訪だったのか

鎌倉から逃亡するのであれば、ほかにも行き先は考えられます。

相模や武蔵の山間部。

北条氏に関係する東国の土地。

あるいは、さらに遠い地方。

それでも時行は信濃の諏訪氏に保護されたと伝えられています。

その背景には、諏訪氏が北条得宗家と深い主従関係を築いていたことがあります。

さらに、諏訪氏には信濃での地域的な基盤がありました。

諏訪社を中心とする宗教的な権威。

地域の武士たちとの関係。

山々に囲まれた盆地という地理的な条件。

こうした要素は、外部から追われる人物を保護するうえで一定の意味を持っていた可能性があります。

しかし、諏訪が山に囲まれているからといって、発見されない安全な場所だったとは限りません。

信濃は鎌倉幕府の時代から東国との交通が盛んな地域でした。

新しい政権も信濃の支配を進めようとしていました。

そのため、時行を保護する行為には政治的な危険が伴っていました。

諏訪氏は、安全な土地へ少年を逃がしたというだけではなく、自らの勢力圏で保護する責任を引き受けたことになります。

時行が暮らした場所はどこだったのか

ここで、歴史ミステリーとして興味深い問題があります。

時行は、信濃のどこに隠れていたのでしょうか。

現在の諏訪地方には、北条時行に関わる伝承が残されています。

また、諏訪だけでなく、伊那地方にも時行の潜伏地をめぐる説があります。

諏訪市が公開した歴史資料でも、時行が身を隠した場所については諏訪・伊那地方に複数の説があり、はっきり分からないとされています。

諏訪氏に保護されていたことと、同じ屋敷で二年間暮らしていたことは同じではありません。

危険を避けるため、居場所を移していた可能性も考えられます。

しかし、そのような移動を確認できる記録がなければ、実際に行われたと断定することはできません。

時行が二年間をどこで過ごしたのか。

この問いには、今も明確な答えがありません。

諏訪頼重という人物

時行を保護した一族の中で、特に重要なのが諏訪頼重です。

頼重は諏訪上社の大祝に関わる家系の人物として知られています。

大祝とは、諏訪社の祭祀において特別な地位を持つ存在でした。

諏訪上社では、大祝が諏訪明神の現人神として崇敬される信仰がありました。

その一族に属する頼重は、単なる地方の武将ではありませんでした。

宗教的な権威を背景に持つ諏訪氏の中心的な人物の一人だったのです。

そして、1335年の中先代の乱では、頼重が時行を奉じて挙兵します。

この事実から、頼重が時行を支える政治的・軍事的な中心人物であったことが分かります。

しかし、一つの問題があります。

1333年に時行を救った諏訪盛高と、1335年に時行を奉じた諏訪頼重は、どのような関係だったのでしょうか。

盛高と頼重は同一人物なのか

一般的な人物解説では、諏訪盛高が時行を鎌倉から脱出させ、諏訪頼重が信濃で保護したと説明されています。

しかし、後世の系図には、盛高と頼重を同一人物とする解釈につながる記載もあります。

もし二人が別人であれば、鎌倉からの脱出と信濃での保護には、異なる人物が中心となって関わったことになります。

一方、同一人物であれば、時行を救った人物が、その後の中先代の乱まで中心的な役割を担っていたことになります。

これは、時行と諏訪氏の関係を考えるうえで重要な問題です。

ただし、後世の系図に記されていることだけで、同一人物だと確定することはできません。

同じ一族の人物が複数の名前を持つ場合もあれば、後世に異なる人物の事績が一人にまとめられる場合もあります。

『太平記』などの軍記物と、諏訪氏の系図、同時代の文書を比較する必要があります。

現時点では、盛高と頼重の関係には検討すべき点が残っていると考えるのが適切でしょう。

諏訪氏は何を守ろうとしていたのか

諏訪氏が時行を守った理由について、まず考えられるのが北条得宗家との長い主従関係です。

得宗家が政治的な力を持っていた時代、諏訪氏はその家臣として活動してきました。

しかし、1333年に幕府が滅亡すると、その関係を支えていた政治的な体制が失われます。

諏訪氏にとっては、従来の主君を失うという大きな変化でした。

それでも、主君の子を守るという選択をしたのです。

この行動を、長年の恩義や忠誠によって説明することはできます。

しかし、それだけだったのでしょうか。

北条氏の再興によって、諏訪氏自身の政治的な立場を回復できる可能性もあったかもしれません。

また、新しい建武政権の支配に対する反発が、諏訪氏の判断に影響した可能性もあります。

ただし、こうした動機を本人の確定した心情として描くことはできません。

諏訪氏が実際に選んだ行動と、その背景にあった可能性を区別する必要があります。

建武政権と信濃の武士たち

鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は信濃の統治体制を整えようとしました。

信濃守護には小笠原貞宗が任じられました。

しかし、信濃の武士たちがすべて新しい政権に従ったわけではありません。

北条氏に関係の深い武士団も存在していました。

また、地域ごとに異なる利害を持つ勢力がありました。

『長野市誌』によれば、1335年3月には信濃で北条氏の旧勢力による反乱が起きています。

水内郡や府中周辺など、複数の地域で反建武政権の動きが現れました。

つまり、同年7月に時行が挙兵する以前から、信濃の政治情勢は不安定になっていたのです。

中先代の乱は、時行と諏訪頼重が突然思いついて始めた反乱と考えるべきではありません。

すでに各地に存在していた反建武政権の動きと、北条氏再興を望む勢力が結びついた出来事でした。

京都にも北条氏再興を望む人々がいた

北条時行をめぐる動きは、信濃だけに限られていませんでした。

京都では、西園寺公宗が建武政権を倒そうとする計画に関わっていました。

西園寺家は、鎌倉時代に朝廷と幕府の間で重要な役割を担ってきた公家の家柄です。

公宗は北条氏と関係を持ち、幕府滅亡後の政治情勢にも深く関わっていました。

1335年、西園寺公宗による後醍醐天皇暗殺計画が発覚したと伝えられています。

そして、この動きは北条時行の挙兵とも関係していたと考えられています。

ここで興味深いのは、北条氏再興を望む動きが、信濃の武士たちだけのものではなかったという点です。

京都の公家。

信濃の武士。

北条得宗家の旧臣。

それぞれ異なる立場の人々が、建武政権に対抗する動きを見せていました。

ただし、京都と信濃の間で、どの程度具体的な連絡や共同計画が成立していたのかについては、慎重に検討する必要があります。

複数の場所で似た動きが起きたことと、すべてが一つの指揮系統で動いていたことは同じではありません。

少年は二年間で何を経験したのか

1333年、鎌倉幕府が滅亡したとき、時行は幼い少年でした。

1335年、時行は諏訪頼重らに奉じられて挙兵します。

わずか二年余りの間に、時行の立場は大きく変わりました。

追われる側の少年から、北条氏再興を目指す軍勢の中心へ。

しかし、その変化の過程を詳しく記した史料は限られています。

時行が諏訪氏からどのような教育を受けたのか。

自分の父や一族の滅亡について、どのように教えられたのか。

北条氏再興という目的を、どの程度自ら理解していたのか。

いずれも興味深い問題です。

ただし、本人が残した言葉や確かな記録がない以上、その心情を自由に創作することはできません。

重要なのは、1335年に時行が北条氏の後継者として担ぎ出され、多くの武士たちがその名の下に集まったということです。

なぜ諏訪頼重は挙兵を選んだのか

1335年7月、諏訪頼重は子の時継らとともに、北条時行を奉じて挙兵しました。

信濃守護・小笠原貞宗ら建武政権側の軍勢と対立し、関東へ進みます。

この挙兵には、北条氏の旧臣や建武政権に不満を持つ武士たちが加わりました。

では、なぜこの時期だったのでしょうか。

1333年の幕府滅亡直後ではなく、約二年後だったことには意味があるのでしょうか。

考えられる背景には、信濃における新政権と旧北条勢力の対立があります。

また、各地で反建武政権の動きが広がっていたことも関係していたと考えられます。

しかし、頼重が挙兵を決断した瞬間に、どのような情報を持ち、何を最も重視したのかは分かりません。

確かなのは、諏訪氏が時行を保護する立場から、北条氏再興を掲げて軍事行動を起こす立場へ変わったことです。

それは、諏訪一族自身の運命も大きく変える決断でした。

諏訪頼重の選択は、一族を守る道だったのか

時行を守るだけであれば、諏訪氏が戦いを起こす必要はなかったかもしれません。

しかし、建武政権の支配が信濃に広がる中で、北条氏の遺児をかくまい続けること自体が危険な行為だった可能性があります。

新政権に従えば、諏訪氏の従来の立場が保障されるとは限りません。

一方、北条氏を再興できれば、かつての政治的な関係を取り戻せる可能性もあります。

ただし、反乱に敗れれば一族の存続が危うくなります。

どちらの選択にも危険がありました。

そして頼重は、時行を奉じて戦う道を選びました。

その結果、時行軍は鎌倉の奪還に成功します。

しかし、その勝利は長く続きませんでした。

足利尊氏が反撃し、頼重らは鎌倉で命を落とすことになります。

1335年8月19日、諏訪頼重の最期

北条時行を奉じた軍勢は、1335年7月に鎌倉を攻略しました。

しかし、足利尊氏が東下すると、戦況は逆転します。

時行軍は次第に後退し、鎌倉を維持することができなくなりました。

そして8月19日、諏訪頼重と子の時継らは、鎌倉の勝長寿院で自害したと伝えられています。

『太平記』などには、頼重らが最期を迎えた様子が記されています。

ただし、その場で交わされた言葉や細かな行動については、軍記物の文学的な表現も考慮する必要があります。

一方、時行本人は再び生き延びました。

1333年、幕府滅亡のとき。

1335年、中先代の乱の敗北のとき。

時行は二度にわたり、北条氏やその支持者たちが大きな打撃を受ける中で生存したのです。

ここに、時行の生涯を貫く大きな謎があります。

なぜ、この少年だけが何度も生き残ることができたのでしょうか。

そして、頼重らが命を落とした後、時行を守ったのは誰だったのでしょうか。

諏訪頼重が残したもの

諏訪頼重は、1335年に命を落としました。

しかし、諏訪氏の歴史がそこで終わったわけではありません。

諏訪氏の一族は、その後も信濃で活動を続けました。

諏訪社の祭祀も継承され、武士としての諏訪氏の歴史も続いていきます。

ここで重要なのは、頼重個人の最期と、諏訪一族全体の歴史を分けて考えることです。

頼重が時行を奉じて挙兵し、敗れて命を落としたことは事実です。

しかし、一族のすべてが同じ運命をたどったわけではありません。

中先代の乱の後も、諏訪氏に関係する武士たちは各地で活動しています。

また、北条時行自身も、その後再び歴史の表舞台へ姿を現します。

諏訪頼重の死によって、北条氏再興の動きが完全に消えたわけではなかったのです。

一人の少年を守ることが、歴史を変えた

1333年、鎌倉幕府が滅亡しました。

北条高時は命を落としました。

しかし、息子の時行は諏訪氏に保護され、生き延びました。

もし時行がこのとき命を落としていれば、1335年の中先代の乱は、少なくとも同じ形では起こらなかったでしょう。

得宗家の後継者という存在が、北条氏の旧臣たちをまとめる重要な象徴になったからです。

しかし、時行を生き延びさせたことが、その後の戦乱をすべて決定したわけではありません。

信濃にはすでに新政権への反発があり、北条氏の旧臣たちにも、それぞれの事情がありました。

時行という存在と、周囲の政治情勢が結びついたことで、大きな軍事行動へ発展したのです。

諏訪頼重が守ろうとしたものは、北条時行という一人の少年だったのでしょうか。

それとも、北条得宗家との長い関係だったのでしょうか。

あるいは、諏訪一族自身の将来だったのでしょうか。

その答えを一つに決めることはできません。

しかし、諏訪氏が下した選択が、北条時行の人生と南北朝時代の政治情勢に大きな影響を与えたことは確かです。

そして、その背景には、諏訪氏が持っていたもう一つの特別な立場がありました。

次回は「諏訪大社と北条氏、神と武士の謎」。

諏訪氏は、なぜ神を祀る一族でありながら、武士として戦い続けたのでしょうか。

現人神とされた大祝とは、どのような存在だったのでしょうか。

諏訪大社の信仰、神氏の系譜、北条得宗家との関係。

宗教と政治、そして武士の世界が交わる諏訪の歴史から、北条時行を守った一族の本質をさらに探っていきます。

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