楠木正成 英雄か、悪党か。時代によって変えられてきた人物像と、人々が守り続けた記憶【3】
明治時代、正成は国家的な象徴となった
1868年、明治時代が始まります。
日本は、政治や社会の仕組みを大きく変えていく時代を迎えました。
1872年には、楠木正成を祀る湊川神社が創建されます。
正成は、天皇への忠義を尽くした人物として、国家的にも重視されるようになりました。
しかし、ここで忘れてはならないことがあります。
正成への敬意は、明治政府が突然つくり出したものではありません。
江戸時代には徳川光圀が墓碑を建立していました。
それ以前から『太平記』などを通じて、正成の物語は人々に知られていました。
長い年月をかけて受け継がれてきた人物の記憶が、明治時代には新しい国家の価値観と結びついていったのです。
ここで、私は一つの違いに注目したいと思います。
ある人物を尊敬することと、その人物を特定の考え方の象徴として利用することは、必ずしも同じではありません。
正成の人生には、戦場での優れた判断があります。
河内の人々との協力があります。
家族との関係があります。
一度失敗しても学び、次の方法を考えた経験があります。
そして、最後には戦場で命を落としたという結末があります。
しかし、忠義という一つの面だけが強く語られるようになれば、それ以外の姿は見えにくくなってしまいます。
それは、正成という人物を称える場合であっても起こり得ることです。
優れた人物として語ろうとするあまり、一人の人間が持っていた複雑さや、迷い、失敗、学びの過程が失われてしまう。
私は、それも歴史を考える上では注意すべきことだと思います。
南朝と北朝、どちらが正統だったのか
楠木正成の評価と深く関わるのが、南朝と北朝の正統性をめぐる問題です。
1392年、南北朝は合一しました。
その後、皇位は北朝の系統によって継承されていきます。
しかし、南朝と北朝のどちらを正統と考えるのかについては、後世にもさまざまな議論がありました。
江戸時代には、水戸学などの歴史思想の中で、南朝を重視する考え方が広がっていきます。
そして明治時代になると、南北朝の正統性をめぐる問題は、歴史教育にも関わる大きな問題となりました。
1911年、いわゆる南北朝正閏問題が起こります。
国定教科書の記述などをめぐって、南朝と北朝をどのように扱うべきかが政治問題となったのです。
最終的に、南朝を正統とする扱いが公式に定められました。
ここに、歴史の語られ方が変わる大きな転換点があります。
南北朝が合一した後、実際に皇位を継承してきたのは北朝の系統でした。
しかし、何百年も後の時代には、南朝が正統と位置づけられたのです。
もちろん、南朝正統論が明治時代に突然生まれたわけではありません。
長い思想史や歴史研究の積み重ねがありました。
それでも、国家がどのような歴史観を採用するのかによって、教科書に書かれる歴史の姿が変わったことは見逃せません。
では、実際に南北朝の時代を生きた人々は、どのように考えていたのでしょうか。
南朝を支持した武士たちには、それぞれの理由があったでしょう。
北朝を支持した人々にも、守ろうとした土地や家族、政治的な考えがあったはずです。
正統性をめぐる後世の判断だけで、彼ら一人ひとりの人生を説明することはできません。