楠木正成 英雄か、悪党か。時代によって変えられてきた人物像と、人々が守り続けた記憶【2】
1336年、湊川の戦い。
楠木正成は、足利尊氏の軍勢と戦い、弟の正季らとともに命を落としました。
鎌倉幕府の大軍を相手に千早城で戦い続けた武将。
後醍醐天皇を支え、建武の新政の成立に貢献した人物。
そして、最後には湊川で敗れた武将。
その人生は、わずか数年の間に日本の政治を大きく変えた出来事と重なっています。
しかし、正成の歴史には、もう一つ興味深いものがあります。
それは、正成が亡くなった後の人々が、彼をどのように見つめ、語り継いできたのかということです。
正成は、後世に忠義の武将として広く知られるようになりました。
一方、現代の歴史研究では、鎌倉時代末期の「悪党」と呼ばれた人々との関係から、その人物像を考えることもあります。
同じ一人の人間でありながら、時代や語る人によって、まったく異なる姿が現れるのです。
では、楠木正成は、本当はどのような人物だったのでしょうか。
そして、なぜ何百年もの間、人々はその名前を忘れずに伝えてきたのでしょうか。
今回は、正成が生きた時代から江戸、明治、そして現代まで、彼の人物像がどのように語られてきたのかを追ってみたいと思います。
湊川で命を落とした武将を、誰が記憶していたのか
正成が亡くなった1336年。
足利尊氏は湊川での勝利を経て京都へ進み、武家政権を築いていきました。
一方、後醍醐天皇は吉野へ移り、南朝を開きます。
その後、二つの朝廷が対立する南北朝時代が続きました。
正成の息子たちは南朝側として戦い続けます。
正行は1348年、四條畷の戦いで命を落としました。
正儀は、その後も長い
越前の平泉寺にも残された供養塔
正成を弔う場所は、湊川だけではありません。
福井県勝山市の平泉寺白山神社にも、楠木正成の供養塔が残されています。
深い杉林に囲まれた境内。
苔むした石畳。
長い石段を登った先にある三之宮の近くに、その石塔があります。
平泉寺に伝わる話では、正成の親族とされる恵秀律師が、この地で修行していました。
正成が湊川で戦死した頃、鎧をまとった正成の姿が恵秀の前に現れたといいます。
その後、正成の死を知った恵秀は、供養のため石塔を建てたと伝えられています。
不思議な伝承です。
実際に何が起きたのかを、現在の私たちが確かめることはできません。
しかし、ここでも正成の死を悼み、その記憶を残そうとした人々の姿が見えてきます。
平泉寺の供養塔は、江戸時代の1668年に福井藩主松平光通によって修復されたと伝えられています。
正成が亡くなってから、三百年以上が過ぎた時代です。
その後も、供養塔を訪れる人々がいました。
ここで一つ考えてみたいことがあります。
湊川に残された墓所。
越前の平泉寺に残された供養塔。
離れた土地に、同じ人物を悼む場所が存在しています。
しかも、その記憶は一つの時代だけにとどまらず、何世紀にもわたって受け継がれてきました。
人々が正成を弔い続けた理由は、全員同じだったのでしょうか。
忠義を重んじる人もいたでしょう。
軍略家として尊敬する人もいたかもしれません。
家族や親族のつながりから、その名を大切にした人々もいたでしょう。
一人の人間が後世に残すものは、必ずしも一つの評価ではないのだと思います。