楠木一族と後南朝。南北朝合一の後も、なぜ戦い続ける人々がいたのか【1】
守られなかった約束と、吉野の山々に残されたもう一つの歴史
1392年。
南朝の後亀山天皇は吉野を離れ、京都へ向かいました。
京都と吉野に分かれていた二つの朝廷が、ようやく一つになる日を迎えたのです。
南北朝合一。
1336年に後醍醐天皇が吉野へ移ってから、およそ56年。
その間、日本各地では数え切れないほどの戦いが繰り返され、多くの人々が命を失いました。
楠木正成は湊川で戦死しました。
息子の正行も四條畷で命を落としました。
正儀は、長い戦いの中で南朝と室町幕府の間を行き来しながら、和睦の道を模索しました。
そして、その後の世代にも楠木一族の歴史は続いていきます。
政治の中心では、南北朝の争いが終わったことになりました。
しかし、南朝を支えてきた人々のすべてが、これで問題は解決したと考えたのでしょうか。
実際には、合一の後も南朝の皇統を支持し、室町幕府に抵抗する人々が現れます。
後世に「後南朝」と呼ばれる人々です。
なぜ、和平が成立した後にも争いが続いたのでしょうか。
それは、戦いをやめることと、互いの立場を認め、約束を守り続けることが、決して同じではなかったからなのかもしれません。
今回は、南北朝合一の後に残された人々の歴史をたどりながら、楠木一族が守ろうとしたものについて、もう一度考えてみたいと思います。
南北朝合一は、どのような約束によって成立したのか
1392年の南北朝合一には、室町幕府三代将軍、足利義満が大きく関わりました。
当時、幕府は全国の有力武士たちをまとめ、政治的な支配を強めようとしていました。
しかし、南朝が存在する限り、幕府に反対する武士たちが南朝の皇統を支持し、別の勢力をつくる可能性がありました。
一方、長い戦いを続けてきた南朝側も、軍事的には厳しい状況に置かれていました。
互いに争いを終わらせる必要があったのでしょう。
そこで進められたのが、明徳の和約です。
この和約では、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ三種の神器を引き渡すことが定められました。
さらに、今後の皇位については、南朝の大覚寺統と北朝の持明院統が交代で継承するという条件が示されました。
両統迭立という考え方です。
つまり、南朝側がすべてを失い、無条件に北朝へ従うという話ではなかったのです。
将来の皇位継承にも南朝の系統が関わる。
そうした条件があったからこそ、和平への道が開かれたと考えられます。
しかし、この約束には大きな問題が残されていました。
それは、和約が成立した後、本当に約束が守られるのかということです。
約束された皇位継承は、なぜ実現しなかったのか
南北朝合一によって、皇位は北朝の後小松天皇へ引き継がれました。
ところが、その後、南朝と北朝が交代で皇位を継承する仕組みは実現しませんでした。
皇位は北朝の系統で継承され続けることになります。
では、南朝側は何を信じて和睦に応じたのでしょうか。
何十年にもわたって戦い、多くの仲間や家族を失った人々がいました。
その人々にとって、皇位継承の約束は、単なる形式的な条件ではなかったでしょう。
自分たちが支えてきた皇統が、将来も存続できるという希望だったのかもしれません。
その希望が実現しなかったとき、南朝を支えていた人々は何を感じたのでしょうか。
もちろん、南朝側のすべての人々が同じように考えたわけではありません。
和平によって戦いが終わることを歓迎した人々もいたでしょう。
これ以上、家族や仲間を失いたくないと考えた人々もいたはずです。
一方で、約束が守られなければ、和睦そのものに疑問を持つ人々が現れても不思議ではありません。
争いを終わらせるための約束が、かえって新たな不信を生んでしまう。
そこに、南北朝合一が抱えていた難しさがあったように思います。