巴御前は本当に実在したのか。八百年の時を超えて語り継がれた女武者の謎【7】
もし巴御前が実在しなかったなら
では、反対に考えてみたい。
もし巴御前という女性が実在せず、後世の人々によって生み出された人物だったとしたら。
その場合、彼女の物語には意味がなくなるのだろうか。
私たちは、そうは思わない。
もちろん、実在しなかった人物の行動を、実際の歴史として説明することはできない。
しかし、なぜそのような人物が生み出され、長く語り継がれてきたのかという問題は残る。
人々は、巴御前という女性に何を求めたのだろう。
勇敢な女性の姿だったのか。
義仲に最後まで尽くした仲間の姿だったのか。
それとも、戦いに敗れても生き延び、新しい人生を歩む人間の姿だったのだろうか。
その答えは、時代によって異なっていたかもしれない。
『平家物語』を聞いていた人々と、江戸時代に巴御前の浮世絵を眺めていた人々では、彼女に重ねる思いも違っていただろう。
そして、現在の私たちが巴御前の物語を読むときにも、そこから感じるものは人によって異なる。
もし巴が架空の人物だったとしても、彼女を生み出し、語り継いできた人々は実在したのである。
そこには、その時代を生きた人々の考え方や価値観が残されている。
物語は、必ずしも実際の出来事だけを記録するものではない。
人々が何を大切にし、何を恐れ、何を願っていたのかを伝えることもある。
その意味では、巴御前の物語そのものが、歴史を考えるための手がかりになるのである。
八百年の時を超えて残ったもの
ここまで、巴御前の実在について考えてきた。
しかし、現時点で私たちが出せる結論は、一つしかない。
巴御前が実在したかどうかは、まだ分からない。
同時代の確かな記録には、その存在を確認できない。
『平家物語』には巴御前が描かれているが、本文によってその運命は異なっている。
『源平盛衰記』には、さらに長い後半生が語られているものの、他の記録との間に矛盾もある。
そして、同じ時代に実際に戦った板額御前の存在が、巴御前の人物像に影響を与えた可能性もある。
これらを重ね合わせても、巴御前の実在を証明することはできない。
しかし、だからといって、彼女が存在しなかったと断定することもできない。
歴史の中には、こうした問題が数多く残されている。
調べても分からないことがある。
新しい史料が見つかれば、これまでの考え方が変わることもある。
反対に、どれほど調べても、答えが得られないこともあるだろう。
それでも、考えることをやめる必要はない。
大切なのは、自分が信じたい結論に合わせて、都合のよい記録だけを選ばないことである。
実在してほしいと思うから、実在したと決める。
架空の人物だと思うから、伝承をすべて否定する。
そのどちらでもなく、残されたものを一つずつ確かめていく。
私たちは、そんな歴史の読み方を続けていきたい。
巴御前が教えてくれた、人間のもう一つの強さ
最後に、もう一度、巴御前が鎧を脱いだという場面を思い浮かべてみたい。
義仲は、粟津の戦場で命を落とした。
今井兼平も、樋口兼光も、それぞれ悲劇的な結末を迎えた。
そして、巴御前は生き延びたと伝えられている。
もし彼女が実在したのなら、その後も日々の生活が続いていたはずである。
朝になれば目を覚まし、食事をし、人と話し、季節の移り変わりを感じながら暮らしていたのだろう。
ときには義仲や仲間たちのことを思い出したかもしれない。
新しい土地で、新しい人々と出会ったかもしれない。
年齢を重ねる中で、若い頃には気づかなかったことを学んだかもしれない。
どのような人生だったのかは分からない。
けれども、人間の人生は、戦場での勝敗だけで決まるものではない。
誰かに勝つことも、何かを成し遂げることも、大切な経験である。
しかし、その後にどう生きていくかという問題も、同じように大切なのではないだろうか。
私たちがこれまで源義経やテムジンの人生を追いかけながら考えてきたこと。
人間は、生まれ持った能力だけで生きるのではない。
周囲の人々から学び、経験を重ね、環境の変化に応じて、新しい答えを生み出していく。
その力は、特別な英雄だけに備わったものではない。
八百年前の人々にも、今を生きる私たちにも、共通しているものだと思う。
そして、巴御前の物語を追いかけてきたことで、もう一つ考えたいことが生まれた。
人間の強さは、何かを成し遂げる力だけではなく、失った後にも生きていく力の中にもあるのではないだろうか。
義仲とともに戦った女武者が、本当に存在したのか。
その答えは、まだ分からない。
しかし、彼女の物語を語り継いできた人々がいたことは確かである。
その人々もまた、それぞれの時代を生きていた。
家族を守り、仕事をし、困難に向き合い、次の世代へ命をつないできた。
そして、そんな人々の積み重ねの先に、現在の私たちがいる。
歴史を学ぶということは、有名な人物の名前や出来事を覚えることだけではない。
かつて生きていた人々が、自分たちと同じように悩み、考え、選択しながら人生を歩んでいたことを知ることでもある。
巴御前という女性を通して、私たちは、そのことを改めて考えることができた。
ただ、ここで物語を終わらせるには、まだ気になることがある。
巴御前よりも確かな歴史の記録を残した、板額御前。
彼女は戦場で捕らえられ、鎌倉へ送られた。
そこで、かつて敵だった武将の妻になったと伝えられている。
では、その後はどうなったのだろう。
敵として戦った女性を、なぜ幕府は生かしたのだろう。
彼女を妻に迎えた浅利義遠とは、どのような人物だったのだろう。
そして、板額御前は、自分の一族が敗れた後、どのように新しい人生を歩んだのだろう。
巴御前の実像を追いかけていた私たちは、いつの間にか、もう一人の女性の人生にたどり着いていた。
次回は、板額御前の生涯を詳しくたどりながら、記録に残された女武者の実像を探してみたい。
そこには、巴御前とはまた違う、一人の人間のドラマが待っているのかもしれない。