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那須与一の謎|扇の的を射抜いた若武者は、どこで弓の技術を身につけたのか【2】

2015.01.31

与一は、いつ義経と出会ったのか

那須地方の伝承には、1180年に義経が奥州から頼朝のもとへ向かう途中、那須氏の人々と関係を結んだという話があります。

その際、那須十郎為隆と与一が義経に従ったと伝えられています。

この伝承が実際の出来事をどこまで反映しているのかは分かりません。

しかし、私たちがこれまで考えてきた義経一行の移動経路と重ねると、興味深い問題が浮かび上がります。

奥州平泉から関東方面へ向かう場合、東北南部から下野国へつながる交通路を利用することが考えられます。

その周辺には、古くから人々の往来がありました。

馬や物資を運ぶ人々もいたでしょう。

地域の有力者たちが、外部から来た人々と接触する機会もあったと考えられます。

もし義経が移動の途中で那須氏の人々と出会っていたのであれば、与一との関係は屋島の戦いよりも以前に始まっていたことになります。

そして、その場合、義経は与一の弓の技術を以前から知っていた可能性があります。

しかし、与一がいつ義経の軍勢に加わったのかを直接示す確かな記録は残されていません。

そのため、二人の出会いについては、引き続き考える必要があります。

扇の的は、本当に射抜けるものだったのか

屋島の戦いに戻ってみましょう。

『平家物語』では、与一が射た扇は、海上の船に掲げられていました。

船は波によって揺れています。

扇は風を受けて動いています。

与一自身も馬に乗っています。

しかも、戦いの最中です。

この状況で扇を射ることは、簡単ではありません。

まず、的までの距離が問題になります。

『平家物語』には、扇との距離を七段ほどとする記述があります。

しかし、その距離を現代の単位に換算する方法や、実際の海岸線の位置については議論があります。

伝えられた距離を、そのまま正確な測量値として扱うことはできません。

それでも、船上の小さな的を狙うという場面を考えるだけで、必要な技術の難しさが分かります。

射手は、扇の位置だけを見ていればよいわけではありません。

風の強さ。

船の揺れ。

馬の動き。

矢の飛ぶ方向。

それらを考える必要があります。

特に重要なのは、矢を放つ瞬間です。

弓を引いている間も、扇は動いています。

矢を放してから的に届くまでにも、わずかな時間があります。

そのため、射る瞬間に的がある位置だけではなく、矢が届くときの動きまで考えなければなりません。

もちろん、与一本人がこのような判断を実際に行ったという記録が残っているわけではありません。

しかし、動く的を射る技術を考える際には、こうした条件を検討する必要があります。

そして、この能力は、戦いの直前に一度だけ練習して身につくものではありません。

日々の経験の積み重ねがあったと考える方が自然です。

義経は、なぜ与一を選んだのか

扇の的の物語では、義経が与一を呼び出して射るよう命じたとされています。

ここで考えたいことがあります。

源氏の軍勢には、多くの武士がいました。

弓を扱う人々も大勢いたはずです。

その中で、なぜ与一が選ばれたのでしょうか。

一つには、与一が弓の名手として知られていたという説明があります。

しかし、その場合でも、誰が与一の能力を義経に伝えたのかという問題が残ります。

義経が以前から与一を知っていたのか。

他の武士たちが与一を推薦したのか。

あるいは、戦いの中で与一の能力が知られるようになっていたのか。

詳しいことは分かりません。

ただ、私たちは、ここに義経の集団のあり方を考える重要な点があると思います。

大切な仕事を任せるとき、リーダー自身がすべてを実行する必要はありません。

その仕事に最も適した能力を持つ人を見つけ、任せることができます。

義経が与一の技術を認め、扇を射る役割を任せたのであれば、そこには仲間の能力を活かす判断があったことになります。

私たちは、義経の強さを考える際に、この点を重視してきました。

一人の英雄が何でもできることよりも、異なる能力を持つ人々が協力して目的を実現できること。

そのような集団の力が、義経の戦いを支えていたと考えています。

扇の的は、なぜ戦いの途中で掲げられたのか

ここで、扇の的という出来事そのものを考えてみたいと思います。

平家の船に掲げられた扇を、源氏の武士が射る。

これは、普通の戦闘とは少し異なります。

敵を倒すための攻撃ではありません。

船そのものを沈めるためでもありません。

小さな扇を射落とすという、一種の技術の競い合いです。

では、なぜ戦いの途中で、そのようなことが行われたのでしょうか。

後世の物語では、平家側が源氏を挑発するために扇を掲げたとされています。

しかし、そこには武士たちの名誉や技術を競うという意味もあったのかもしれません。

当時の武士にとって、弓馬の技術は重要な能力でした。

その技術を人々の前で示すことには、特別な意味があったと考えられます。

もし扇を射落とせなければ、源氏側は恥をかくことになります。

反対に、見事に射落とせば、源氏側の技術を示すことになります。

つまり、扇の的の場面は、単なる余興ではなく、双方の武士たちが互いの力量を見せ合う行為として語られた可能性があります。

また、『平家物語』では、扇が射落とされた後、平家側の武士が舞い始め、それを与一が射殺したという場面も続きます。

扇を射抜いたときには、源氏も平家も歓声を上げた。

しかし、人が射られたときには、反応が分かれたと伝えられています。

ここには、武芸を競うことと、人の命を奪う戦闘との違いが表れています。

私たちは、この場面にも、戦争の中で生きた人々の複雑な感情が描かれていると感じます。

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