継体大王の謎|なぜ遠く離れた越前から迎えられた王は、大和に入るまで20年もの歳月を必要としたのか【1】
5世紀後半、日本列島にはワカタケル大王と呼ばれる有力な王が存在していました。
埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣と、熊本県の江田船山古墳から出土した大刀には、同じ大王の名前が刻まれていたと考えられています。
遠く離れた東国と九州の有力者たちが、同じ大王との関係を記録していたことは、当時の王権が広い地域に影響力を持っていた可能性を示しています。
しかし、その王権が、次の時代にも同じ形で受け継がれていったのかについては、大きな謎が残されています。
6世紀の初め、日本列島の政治的な中心に、一人の新しい大王が登場しました。
後に第26代天皇として記録される、継体天皇です。
『日本書紀』によれば、継体天皇はそれまでの大王家の中心から遠く離れた越前にいた人物で、先代の武烈天皇に後継者がいなかったため、有力豪族たちによって迎えられたとされています。
その血筋は、応神天皇の五世孫。
しかし、応神天皇から継体天皇までの系譜には、明らかになっていない部分があります。
しかも、不思議なことに、継体天皇は王位に就いたとされる場所から、すぐに大和へ入ったわけではありませんでした。
河内の樟葉、山背の筒城、弟国と拠点を移し、ようやく大和の磐余に入ったのは、即位から約20年後だったと伝えられています。
なぜ、新しい大王は、従来の王権の中心であった大和へ、すぐに入ることができなかったのでしょうか。
本当に、それまでの王統を受け継いだ人物だったのでしょうか。
それとも、各地の有力者たちを背景に、新しい政治勢力が王権の中心に登場したのでしょうか。
さらに、継体大王の時代には、九州で大きな戦いが起きたと伝えられています。
朝鮮半島との交流も続き、各地では巨大な古墳が築かれ、高度な土木技術や金属加工技術が発展していました。
継体大王の時代は、単に王が交代しただけではなく、日本列島の政治的な仕組みが大きく変わっていく時期だったのかもしれません。
今回は、古代日本の王統をめぐる大きな謎の一つである継体大王の出自と即位を手がかりに、6世紀初頭の日本列島で何が起きていたのかを考えていきます。
1. 武烈天皇の死|本当に王位を継ぐ人物はいなかったのか
『日本書紀』によれば、506年、武烈天皇が亡くなりました。
武烈天皇は、第25代天皇として記録される人物です。
父は仁賢天皇とされ、それまで続いていた王統の中に位置づけられています。
しかし、『日本書紀』は武烈天皇に後継者がいなかったと伝えています。
そこで、大伴金村をはじめとする有力豪族たちは、新しい王を迎えるために協議を行ったとされています。
この出来事は、継体大王の登場を考えるうえで、重要な出発点となります。
ただし、ここで注意したいのは、『日本書紀』が編纂されたのは720年であり、武烈天皇の時代から200年以上が経過していることです。
記録には古い伝承や系譜が利用されていたと考えられますが、そこに記された出来事のすべてが、当時の状況をそのまま伝えているとは限りません。
特に、武烈天皇については、不思議な記述があります。
『日本書紀』では、武烈天皇は極めて残酷な行為を繰り返した人物として描かれています。
一方、『古事記』には、そうした残虐な行為についての詳しい記述は見られません。
では、なぜ『日本書紀』は、武烈天皇を極端な暴君として描いたのでしょうか。
一つの解釈として、次に登場する継体天皇の即位を正当化するため、それまでの王の問題点を強調した可能性が指摘されています。
前の王が政治を乱し、後継者もいなくなった。
そこで、有力豪族たちが話し合い、優れた人物を新しい王として迎えた。
このような流れで記述すれば、新しい大王の登場を自然な出来事として説明できます。
もちろん、だからといって武烈天皇の存在や、その時代に起きた出来事をすべて否定できるわけではありません。
問題は、後の時代にまとめられた歴史書が、どのような意図で人物や出来事を描いているのかということです。
『日本書紀』が伝える王位継承の危機は、実際に起きた政治的な混乱を反映しているのでしょうか。
それとも、新しい王統の成立を説明するために整理された物語なのでしょうか。
継体大王の謎は、ここから始まります。
2. 越前から迎えられた男大迹王|なぜ遠方の人物が選ばれたのか
武烈天皇の死後、新しい大王として迎えられたと伝えられるのが、男大迹王です。
一般に「ヲホド王」などと読まれ、後の継体天皇にあたる人物とされています。
『日本書紀』によれば、男大迹王は越前の三国にいたと伝えられています。
現在の福井県北部にあたる地域です。
一方、『古事記』では、近江から迎えられたという趣旨の記述があり、その出自や活動地域については、史料によって表現が異なっています。
近江は現在の滋賀県にあたります。
越前と近江は、琵琶湖周辺の水運や陸路を通じて結びつく地域です。
そのため、男大迹王がこの一帯に何らかの基盤を持っていた可能性は十分に考えられます。
では、なぜ近畿地方の王権を継ぐ人物として、遠く離れた地域にいた男大迹王が選ばれたのでしょうか。
『日本書紀』には、大伴金村らが最初に別の王族である倭彦王を迎えようとしたものの、倭彦王が恐れて逃げてしまったという話も残されています。
その後、男大迹王が選ばれたとされています。
この記述からは、新しい王の選定に有力豪族たちが深く関わっていたことがうかがえます。
ただし、この経緯が史実どおりだったかどうかは分かりません。
また、男大迹王を、政治的な力を持たない地方の人物だったと考えることも適切ではないでしょう。
もし近江や越前に基盤を持っていたのであれば、地域の有力者たちと関係を築き、人や物資を動かす力を持っていた可能性があります。
越前は日本海に面し、北陸地方の各地や朝鮮半島との交流を考えるうえでも重要な地域です。
近江には琵琶湖があり、北陸、東海、畿内を結ぶ交通上の重要な位置にあります。
こうした地域に政治的な基盤を持つことは、決して小さな意味ではなかったはずです。
男大迹王は、王位を継ぐために突然選ばれた人物だったのでしょうか。
それとも、すでに広い地域に影響力を持つ有力者であり、その力を背景に王権の中心へ進出したのでしょうか。
『日本書紀』が語る「迎えられた王」という姿と、実際に王位を獲得していった政治的な過程は、必ずしも同じではなかったのかもしれません。