日高見国は、なぜ抵抗したのか
高見と呼ばれた東の世界へ、ヤマトの支配は少しずつ広がっていきました。
城柵が造られる。
行政の拠点が置かれる。
関東などから人が移される。
土地の使い方が変わる。
税や支配の仕組みも入ってくる。
こうした積み重ねの中で、東の人々の抵抗が強まっていきます。
その先に現れるのが、アテルイとモレです。
789年、朝廷軍は胆沢へ進みます。
しかしアテルイ側は、この軍を破りました。
その後も抵抗は続き、802年、アテルイとモレは坂上田村麻呂に降伏します。
二人は京へ送られ、最終的に河内国で処刑されました。
ここで私は考えます。
なぜ、降伏した二人を殺さなければならなかったのでしょう。
もし二人が地元で強い影響力を持っていたなら、生かして帰すこと自体が危険だった
可能性があります。
人が集まる。
もう一度抵抗が始まる。
土地の人々が再びまとまる。
支配する側から見れば、そういう存在だったのかもしれません。
もちろん、これは記録から確定できることではありません。
でも、アテルイとモレが突然現れたわけではないことは重要です。
その前に何十年も、
土地へ入られる。
城を造られる。
人を移される。
支配の範囲を広げられる。
という積み重ねがありました。
だから私は、二人を単に「朝廷に逆らった蝦夷の首長」とは見ません。
自分たちの土地と暮らしを守ろうとした側の指導者
として見ることもできます。
そして、この話は鹿島や香取とも切れていません。
水の道を押さえる。
重要な土地を押さえる。
祭祀の場所を取り込む。
行政拠点を作る。
さらに北へ進む。
その流れの先に、胆沢があります。
日高見国を考えるとき、アテルイとモレだけを見るのでは足りません。
その前に、名も残らなかった人々が何世代もいたはずです。
日高見国とは何だったのか。
その答えは、王の名前よりも、
そこに暮らした普通の人たちが、何を守ろうとしたのか
を見ることで近づけるのかもしれません。