麻賀多から香取へ
神社をつないでいたのは、道ではなく水だったのか
船形の麻賀多神社から西へ行けば印旛沼があります。
今の地図で見ると、印旛沼と香取神宮は離れて見えます。
道路で考えるからです。
でも、昔の地形へ戻ると景色が変わります。
千葉県の資料では、中世の房総北部には、現在の印旛沼や手賀沼、霞ヶ浦、北浦などが
一続きとなった大きな内海が広がっていたと説明されています。
さらに、その周囲に残る貝塚や古墳から、内海を中心とした文化圏が存在したことも
指摘されています。
つまり、麻賀多と香取は、
陸の上で遠く離れた二つの場所
ではなかったのかもしれません。
水から見れば、同じ世界の中にいた。
ここが大事です。
船形の麻賀多神社周辺を見ると、そのことを考えたくなる痕跡がかなり残っています。
船形手黒遺跡は印旛沼東岸の台地上にあり、周辺には古墳だけでなく、奈良・平安時代の
住居や建物跡が確認されています。
さらに谷を挟んだ地域では、古墳時代から奈良・平安時代にかけて、679軒もの住居跡が
発見されています。
調査した文化財センター自身が、この地域を印旛沼東岸の中心的な場所の一つだったと見ています。
679軒。
これは、静かな神社がぽつんとあったという景色ではありません。
人がいた。
かなりいた。
子どもが生まれ、
食べ物を作り、
道具を作り、
死者を葬り、
他の土地と物を交換していた。
そして、そのすぐそばに麻賀多神社がある。
私はここで、神社から歴史を始めるのではなく、
人の集まる場所に、後から神社という形が整っていったと考えてみたいです。
さらに台方の麻賀多神社から西へ約1km、印旛沼湖畔には「鳥居河岸」と呼ばれる場所があります。
現在も一の鳥居があります。
名前の通り河岸です。
ここで水から陸へ上がった人間がいた。
舟から荷を下ろした人もいただろう。
逆に内陸から運ばれてきた物を、舟に積んだ人もいたでしょう。
そう考えると、
麻賀多神社の正面玄関は、現在の道路側ではなく、もともとは水側だったのではないか。
そんな景色まで浮かんできます。
そしてこれは、香取にもよく似ています。
香取神宮も、神宮のすぐ前が大きな港だったわけではありません。
水辺には津宮があり、そこから台地側へ入ったところに神宮があります。
麻賀多にも水辺の河岸があり、その奥に神社がある。
形が似ています。
水際。
舟着き場。
そこから少し高い場所。
そして祭祀の場。
この並びです。
偶然でしょうか。
まだ決めません。
でも、古代人が水を交通路としていたのなら、とても合理的です。
洪水や湿地の危険がある低地には住みすぎない。
舟は水際につける。
住居や祭祀の中心は少し上へ置く。
これなら水の便利さと安全性の両方を取れます。
だから台地の縁が重要になる。
鹿島でも。
香取でも。
麻賀多でも。
同じものが見えてくるのです。
そして麻賀多という名前そのものにも、面白い説があります。
成田市立図書館が調べた資料には、「麻賀多」の古い姿を「真潟」と考え、
潟に面した土地で暮らした人々が、水域への畏敬から神を祀ったのではないかと
いう説が紹介されています。
確定した語源ではありませんが、この土地の古地形とは妙によく合います。
もし本当に「潟」の神だったなら。
麻賀多神社は最初から農耕神の社として始まったのではなく、
水辺そのものを祀った場所
だった可能性まで出てきます。